8.刻む距離

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(……静?) 「ごゆっくりどうぞ」 「あ、あぁ、ありがとう」  アテンドしてくれたスタッフの子を無視することもできず、彼が去ってから再度見渡してみると、さっきまで人がいたはずの近場のテーブルは全て空席になっていた。いつの間にか、天板の上もきれいに片付いている。  静――だったように見えた――スタッフももうよく分からない。少なくとも、一望して見える範囲に静の姿はなかった。  見間違いだろうか。  思おうとしても、何だか妙に胸がざわついた。  *  *  *  何となく彼らより先に店を出る気になれず、俺は二杯目のコーヒーを注文していた。  現在進行形の翻訳のテキスト(仕事の資料)を持っていたのが幸いだ。それを適当に眺めながら、俺はちびちびとカップを傾け、時間を潰した。  16時を回った頃、彼らは席を立ち、会計に向かった。それを何気なく目で追うと、そんな時に限って応対したのは静だった。  どきりと跳ねた鼓動を自覚しながら、俺はその光景を注視した。遠目であることもあり、彼らの視界には入っていないはずだ。それでも口にカップを添えたまま、いつでも誤魔化せるようにして様子を窺う。 (……何だ?)  彼女がふっと傍から離れる。化粧直しでもするのか、レストルームに行ったようだ。彼女が見えなくなると、待っていたみたいに男がぐっと距離を削った。会計の処理をしている静の耳元に顔を近づけるようにして、そのまま束の間静止する。 (何か……話してるな)  やがて何ごともなかったかのように身を退いた彼は、静からおつりとレシートを受け取り、にっこり笑った。  そして戻って来た彼女と共に、いっそう柔らかな笑みを浮かべて踵を返す。  ここのスタッフは、できるときにはドアの開閉もしてくれる。特に見送る時は。  けれども、特に繁忙時でもないこの時間に静はそれをせず――どころか、むしろほとんど顔を上げることもなく、ただ小さく頭を下げただけだった。
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