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君が笑うから
一
「高見さん、なんで美術なの?」
高見りりは、顔を上げるのに三秒を要した。理由は三つある。
一つは、読んでいた本がラスト二ページだったこと。
二つ目は、前の席に座っている人物から話しかけられたのが初めてだったこと。
そして、最後はその声の主が男子だったことだ。
「なんで選択美術なの?」
昨日の席替えで、りりは窓側の一番後ろ、いわゆる特等席を引き当てた。校舎がかなりの年代ものであるため、ここにはクーラーがない。扇風機が何台も回ってはいるが、風通しがいいとはとても言えなかった。特等席付近は風の流れがあり、教室の中で最も涼しい場所だ。りりは好きな本を読みながら、時々しかない幸運にひたっていた。
「絵描くの好きなんだ」
とりあえずそう答えて、りりは声の主をちらりと見た。選択科目には美術と音楽があり、進級した際にどちらか受けたい授業を担任に報告する仕組みになっている。
「そっかー。音楽は嫌いってこと?」
現在話をしている男子の名前は、岩城観月。友人以外のクラスメイトに興味がないりりでも、名前と顔くらいは知っていた。いわゆるクラス一のお調子者で、誰とでもすぐに仲良くなれる。人見知りで物静かなりりは、観月が苦手だった。
「嫌いじゃないよ。より美術が好きなだけ」
ラスト二行を目で追いながら、りりが言う。
「そっかー。高見さん、なんかかっこくね?」
「かっこくね?」
りりは本を閉じて、観月に聞き返した。
「かっけー、あ、かっこいいって意味。より好きなだけか。なんかすげー」
観月は窓側に傾いた椅子の背を向けて、だらしなく座っている。男子の中で椅子の鉄パイプ部分を曲げるのが流行中だ。角度も自由に調整できるため、個性の見せどころでもある。ただし、先生に見つかるたびに戻さなければならないのがやっかいだった。
観月の髪は肩に着くくらい伸びていた。りりと同じくらいの長さだ。透き通るような茶色は、もしかしたら染めているのかもしれない。白いシャツのボタンは二つ目まで外されていて、それが今日の暑さを物語っている気がした。
「別に普通じゃない?」
窓の外に目をやると、入道雲が出ている。りりは思わずそれに見とれた。
「いや、俺なんかなんもねーし。せいぜいバレーに比べれば、よりバスケが好きなくらいで」
くくくっ、と笑いをもらしながら、観月が言う。頭の後ろで組んだ手からは、ごつごつとした腕時計が覗いていた。
「でも、友達たくさんいるじゃん」
りりは観月には視線を向けない。教室の中は騒がしい音であふれているため、少しだけ声のボリュームを上げなければならなかった。
「んー。でも、それってなんか違くね?」
「それだって立派な才能じゃん」
「んー……」
考え込む観月をよそに、的外れな着信音が鳴った。
「あ、俺だ。やばっ、マナーモード忘れてた」
観月がズボンのポケットから赤いスマートフォンを取り出す。何げなくりりはその動作を観察した。きらきらと輝いている観月の目が、一瞬だけ曇る。
「……返信しないの?」
観月のスマホは、あっという間にポケットの中へ姿を消した。
「後でね。つか、なんの話だったっけ?」
「友達たくさんの話」
りりが木製の机に彫られている「love」の文字を指でなぞった。何年か前の卒業生が、悪ふざけで残して行ったものだろう。
「あ、そうそう。だって、それは皆同じじゃん?」
「普通はたくさんはいないよ」
「そっかな?」
「うん」
「そっかー」
満面の笑みを浮かべて、観月が照れた。
「そういうとこがいいんじゃない?」
りりが再び窓の外に目をやる。四階の窓からは校庭が一望できた。緑の芝生と、校門まで伸びるアスファルトの道が眩しい。校舎を取り囲むように大きな桜の樹々が植わっており、そこから黒いカラスがばたばたと空へ飛んで行った。
「え、どういうこと?」
「素直なとこ」
「あー……それミチ……カノジョにも言われた」
「彼女いるんだ?」
りりが聞く。
「うん、まーねー。つか、外なんかいんの?」
観月が立ち上がって、椅子を百八十度回転させた。
「別に何もないよ」
二人は数秒間、同じ空を見つめた。静かに時間が流れて行く。
「あるじゃん、空がさー」
嬉しそうに笑いながら、観月が言った。
「きっと、あの樹には蝉もいるぜ」
ジージーという鳴き声に、りりが気がついた。夏の音色だ。
「岩城は元気だね」
りりは真っ直ぐに降り注ぐ観月の視線を受け止めた。
「おー、チョー元気!」
左手でピースサインを作って、観月が頷く。今は夏。ようやく北海道にも訪れた短い夏だ。
「私、歌うのが苦手なんだ」
りりが少し俯いたまま、切り出した。
「え?」
「人前で歌わなくてもいいでしょ、美術って。音楽は歌のテストあるから」
「だから美術?」
「もちろん、絵描くのは好きだけどね」
「そっかー。でもさ……」
観月が口を開きかけたところで、
「観月ー!」
クラスの男子が観月を呼んだ。
「今行く!」
りりは突然現実に引き戻されたような気がして、ぼんやりと机の四文字を見つめた。
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