水の模様

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ーーーーー  自分の絵の、隅の方にさりげなく描かれた幾何学模様のような奇妙な印を見つめる。それは絵の題材とまったく関係ない異質な模様にも関わらず、不思議と絵に溶け込んでいた。  僕には絵を描くとき、日常で見かけた何気ない模様を衝動的に描いてしまう癖がある。今回はうっかりこぼした水の模様がなぜか印象に残ったので描いてしまった。今までいくつもの絵に印を描いてきたが指摘されたことは一度もなく、自分でもなぜそうするのか分からない。  今日は朝から薄暗い曇り空だったが、僕は自分が絵を展示している画廊に顔を出していた。都会のビル街の奥まった場所にあるこの画廊はたどり着くのも一苦労といった赴きで立地は非常に悪く、オーナーは隠れ家的演出だと言っているがどこまで本気か分からない。オーナーは芽の出ていない若い絵描きの面倒を見るのが好きという稀有な人でそういう絵描きの絵ばかりを集めて展示していて、僕も散々お世話になっている。  この画廊にカフェは併設されていないが、くつろぎながら絵を眺められる椅子とテーブルの置かれた一角があり、僕とオーナーはそこで会話に興じていた。 「恭介くんホントにやめちゃうんだねぇ、絵」  オーナーは外見に違わぬ渋い声色で話す。 「ええ、もう決めたことですから」  僕は普通に話したつもりだが、他人が聞けば未練があるような声色かも知れない。 「君は結構描けると思うんだけどね。今回展示させて欲しいって言ったときもすぐに良いもの描いてくれたし」 「本当はオーナーに話を貰ったときには決めてたことなんですが、そのときはまだ誰にも話してなかったんで折角だから最後にと」 「そっか、有り難うね」  僕は絵描きだ。と言っても絵を描くことさえできれば誰でもそう名乗れるだろうと思っているので肩書きにこだわりは無い。  しかしこだわりが有ろうが無かろうが絵で食べていけるかというのは別の話だ。  進路を決めるときに何となく絵描きになりたい思い、何となく美大を出て、絵だけで生計を立てるのは現実的でないという理由で何となく仕事に着き、それから数年何となく生きてきた。  僕の生活は絵を描く時間を作るために仕事の時間を削り画材も買わねばならず、もちろん絵が売れたことなど一度もなく常に金欠だった。それでも続けてきたのは絵を描くことで報われようとしたからだ。だけどどんなに描いても一定以上の評価は貰えなかった。  そして、最近思うようになった。今の僕がこうしているのは情熱があった頃の惰性なのではないかと。もはや絵を描く以外の趣味をしているときの方が心が安らぐ自分を見つけたとき、急に冷めてしまった。 「まあ、自分を見つめ直したいことも有るだろう。でもどんな道に進んでも君の経験は無駄にはならないと思うよ」  オーナーは優しい言葉をかけてくれる。自分で決意したこととは言えセンチメンタルになっていた僕は少しぐっと来てしまう。  そこへ、一人の客が入ってきた。春服を着た妙齢の女性に見えるが、上品で落ち着いた佇まいは見た目が若いだけのような気もする。美人だが少しきつめの意思の強そうな眼をしていた。  画廊に来たのだからそのまま絵を見て廻るのかと思えば、部屋を見渡したあとに真っ直ぐにこちらの一角へ歩いてくる。僕は何だろうと思って彼女を見る。 「失礼します。あなたがこちらのオーナーさんですよね?」  彼女はオーナーに向かい話しかける。 「えぇ、そうですよ。どうです、先日いらしたとき絵をご覧になって良いものが見つかりましたか?」 「ええ、あの絵が気に入りました」  そう言って彼女が手で示した先にあったのは僕の絵だった。 「いやぁ、お目が高い。その絵はここにいる彼が描いたんですが、彼の絵の中で最も貴重なものになるでしょうねぇ」  オーナーの売り言葉は適当が過ぎる。僕が絵を描くのをやめるから最後の絵として高値がつくとかそういう意味だろうか。 「気に入っていただけて嬉しいです。どこが特に眼を引いたとかはありますか?」  僕はつい、次以降に描く絵の参考にしようと感想を求めてしまった。もう絵は描かないと決めたのに。 「えっと、そうですね……絵のことはよくわからないのですが隅にある模様が、綺麗だと思いました」  僕は少し驚いた。今まで誰も見向きもしなかった模様のことを言われたからだ。別に秘密にしているつもりもなかったが、気づいてもらえたことが何だかちょっと嬉しい。  しかし彼女はすぐに絵の話を切り上げてしまう。 「それで、値段を知りたいのですが」 「あぁ、その事なのですがこの画廊ではお客様の言い値で絵を買っていただいているんですよ」 「言い値、ですか?」 「はい、ここにある絵は皆まだ芽が出ていない言ってしまえば売れない絵描きのものばかりを私の親切半分道楽半分で置いてありまして、彼らに経験を積ませる意味合いの方が強いんですよ。もちろん売れれば絵描きの懐が潤うので、自分で値をつけている絵描きもいますが彼は値をつけていません。ですからお客様の感性で値をつけていただければと」  ちなみにオーナーの親切と道楽は二対八くらいだと僕は思っている。 「へぇ……、そうなんですか」  彼女は少し嬉しそうに言った。ふわりとした、喜びから生まれる笑みをこぼす。  そこで僕はその様子に引っ掛かるものを感じた。気に入った絵が安く手に入るのを喜ぶのはわかるが、彼女のそれはそうでは無い気がする。でもそれは根拠の無い憶測でしかないので気にしないことにした。 「本当にいくらでも良いのですか?」  彼女は僕の方に確認を取る。 「あ、はい。金額は気にしませんよ」  口ではそう言ったが、僕は内心緊張していた。今まで僕の絵がお金を産んだことなど一度もない。絵の繋がりでない知り合いに展覧会などに絵を出品していると言うと、 「すごいね、いくら儲かるの?」  などと言われることがあるが、こちらは参加料を払って展示してもらっている側でありまったく逆だ。この画廊は本当に特殊な場所で、本業で大いに儲けているオーナーの好意により絵を置かせてもらえる代わりに売れることもほとんどなく、ここで絵を買いたいと言っている人物を直接見たのは初めてのことだ。  何より、金額を宣告されるということが僕を緊張させていた。お金が欲しければ仕事をすればある程度は手に入る。だけどそれには僕が欲しかった価値観は乗っていない。本当に欲しかったのは絵を評価したいという価値観を乗せたお金だった。そんなお金を僕は今まで手にしたことはない。  絵をやめるという決心は揺るいでいない。だけど、価値観の乗ったお金を貰うという長年の目標の一つが土壇場で叶おうとしているこの状況は僕をひどく動揺させる。表には出していないつもりだが、人から見たらそわそわとでもしているのだろうか。  そして、僕の内心を知ってか知らずか、彼女は僕が思いもよらない金額を口にするのだった。 「いやぁ、何て言うか、すごいお客さんだったね」  彼女が去った後、オーナーは僕にそう話しかける。その顔には、面白くなってきた、と隠すことなく書いてある。 「でも恭介くんも流石だねぇ。一千万円っていう大金を提示されても全然動じることもなく交渉してるんだから、器がでかいよ。うん」 「いや、何言ってるんですか。めちゃくちゃ動揺してましたよ、僕は」 「えー?全然そうは見えなかったよ?」  僕は昔から、なぜか良い意味で誤解されやすかった。自分に不利益をもたらしたり他人を不愉快にさせるような、その場ですべきでない態度をしてしまい失敗したと思ったとき、なぜか他人が都合良く解釈してくれて丸く収まる事が多々あった。僕にはその理由は分からないのでこれはそういうものだと受け入れている。 「それはそうと結局どうするの?売る?」  僕は結局判断を保留した。そもそも画廊に絵を置いているのに売らないというのはおかしな話だが、金額が金額だけに僕を躊躇わせた。  そんな僕の様子を見ても彼女は一千万円という金額を譲らなかった。それ以上はあっても以下はないと。あまつさえ剥き出しの札束を鞄から取り出してテーブルに並べ始めたときは僕は慌てて止めさせた。オーナーは楽しそうにしていた。  彼女は絵を買いたいの一点張りで、そして埒が開かないと見ると日を改めると言って画廊を去った。 「売るかどうか決めるには少し調べたいことがあるんです」 「調べる?彼女のことを?探偵にでも頼むのかい?」  彼女、菅井一恵は名前や連絡先を残して行った。やろうと思えばそういうこともできるだろう。 「似たようなものですけど少し当てがあるんです」  そう言って僕は画廊を出た。空は相変わらず分厚い雲で覆われている。
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