春の匂い

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【プロローグ】 もし春という季節に匂いがあるとしたら、それは草の匂いと土の匂いだ。 天祖神社に向かう緩やかな坂道の両脇には、シロツメ草とノゲシの白い花が風に揺れている。 この道は僕ら三人の中学校に通う、お決まりの通学路だった。 僕ら三人というのは浩二と哲也、そして僕、裕一郎の三人だ。 浩二と哲也は幼馴染で小中と同級生。僕は小学五年の時に彼らのクラスに転校してきた。彼らとはそれ以来の付き合いだ。 あれからそれぞれが進学、就職のためにこの地を離れて十年ぶりの再会だ。 【十年前の春の日】 「裕一郎、まだかー、遅せなぁー」 哲也の朝の第一声は、このセリフから始まる。 「まだ、7時30分のバス、来てないよ」 浩二が返す返事もいつも通りだ。 僕らは毎朝三人で「天祖神社前」のバス停で待ち合わせて学校に向かう。 バスの到着時間が時計代わりだ。バスが来る方向に目を向けると、裕一郎の姿が見えた。その背後にはには、まだ半分しか舗装されていない道をバスが砂煙を舞上げながらやって来る。裕一郎が傍までくると「おはよう!」 「オス」いつもの挨拶を交わし、その横でバスが止まる。 これもいつも通りだ。 三人揃って遠ざかるバスを見送りながら、無言で歩き始める。 それは中学ニ年の3学期の終業式の朝である。 バスの姿が見えなくなって最初に口を開いたのは浩二だ。 「さっきのバスの時刻表の秘密を知ってる・・・・」 「秘密?」哲也が興味深げに問い返す。 「実は、あのバス・・・時刻表にない運転を一日一回してるんだ・・・」 「どういう事?」 「あのバスは6時~9時の間は、一時間に3本」 「でも、6時台にはもう一本増えるんだ・・・・6時30分頃・・・時刻表には 載ってない便なんだ。」 「どういう事なんだよ」 僕は二人のやり取りを黙って聞いていた。 「誰かの、何処かに行く為の専用運転だって。兄ちゃんが言ってた!」 「行先も分からないのか?・・・ミステリーツアーじゃん!」哲也は興味津々 だ。 「よし、わかった確かめよう。コージ、ユーイチロー、決まりだな、この春休みの計画。」 【時刻表にない運転】 そして、数日後。 僕らはいつものバス停に三人揃って立っていた。 時間は6時30分・・・・・もちろん時刻表にないバスに乗るために。 「おい、浩二。本当に来るのかよ」 僕と哲也は、いまだに半信半疑だ・・・ しかし、その数分後には、浩二の話を信じない訳にはいかなくなった。 いつものように砂煙を舞い上げながら6時30分のバスがこちらにやって来る お互い声も出ず顔を見合わせる三人。その後、開いたバスの扉の中に吸い込まれるよう乗り込み、誰もいない一番後ろの席に腰を下ろす。 沈黙の後、いつものように最初に口を開くのは浩二だ。「どこまで行くつもり?」 「とりあえず、何処に行くのか確かめようー」今日の哲也は冷静だ。 「おれ、高校生になったら、バイクの免許を取るよ。」 「突然どうしたんだよ。」 「そうしたら、今まで行けなかった所までひとりで行けるし、バスよりもっと遠くまで行って、この街の外まででかけるんだ。もっともっと知らない世界を見に行ってみたい。」 「すげえーなぁー哲也らしいよ」 僕は感心しながら、あるいは羨ましくも思いながら、窓の外の野草のシロツメ草が茂る白い世界に目を向けていた。 幾つかのバス停に止まり、その都度人が乗り込んで来るが、座席にはまだまだ余裕がある。 「裕一郎は受験どうするの・・・・?」浩二が問いかけて来た。 「多分、父さんがまた転勤になると思う・・・」 「え、また転校するの」二人の声が揃う。 哲也は不服そうに「この前転校して来たばっかじゃん!」 「まだ、決まりじゃないけど、多分間違いないみたい。今までずっと こんな感じなんだ。だから友達が出来てもすぐ転校・・・・」 「それ微妙・・・」哲也は寂しそうな視線を浩二に送りながら・・ 「お前は、やっぱり外の高校を受験するんだろう・・・」 哲也の言う外とは、県外の高校を指しているのだろう。 浩二と哲也は、今まで幼い頃からずっと一緒で中学まで来た。 「うん、多分。」 その後の言葉は誰も続くこともなく、三人の沈黙が続く・・・ バスは幾度となく坂を昇り降りして峠を越し、視界が開けた道を走っている。 ここまで来ると、バスに乗って来る人はほとんどいなくなる。 それでも乗客は、僕ら以外に10人程度はいるだろうか? 途中から窓の外ばかり眺めていた哲也が「あれ、海だ。海が見えてきたぞ。」 この道の先が海ということはそろそろ終点も近いのだろう。 それからほどなくしてバスは停車する。目的地に到着して乗客はみな降車する・・やはりここが終点のようだ。 はじめての土地に降り立つ三人の視線の先には、窓のない大きなコンクリートの建物と鉄塔のようなものが見える。 バスを降りた人達は、その建物を目指して歩いて行く。 それは、僕ら三人が想像していた風景とはまったく違うものだった。 とはいうものの、その時、僕らは何を期待して、何を想像して、何を見よ していたのか、それは今でも定かではない。 潮の匂いと、朝露に濡れて立つ土の匂いの記憶だけが今でもよみがえる。 【エピローグ】 後に知った事では、あの建物は数年前にこの土地に出来た原子力発電所だった・・・それを知ったのは高校生になった頃だったと思う。 その後、浩二は地元に戻り、そこの発電所に勤めるようになる。 毎朝、僕らが待ち合わせをしていたバス停で、6時30分のバスに乗って出勤 をしている。 哲也といえば、地元に残り、高校生になった時にバイクの免許を取得した。 でも、そのバイクで一年前にあの峠で事故を起こし亡くなった。 今日はその一周忌。 十年ぶりに、浩二と再会するために、いつものバス停で待ち合わせをしている。 あの時の記憶が蘇る中で、僕らは何処に行こうとして、何を見ようとしていたのか。ただただ好奇心に駆られた中学生がいたことは確かである・・・ 今日もあの日と変わらず、あたり一面にはシロツメ草とノゲシの白い花が風に揺れている。
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