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 聴聞会後しばらく、蛍汰は朝から晩まで病室で新しい調査書記入や聴聞会の報告書作成に追われた。退院は意図的に引き延ばされ、病室は静かに集中できる執務室と化した。当然ながら智実に会うことも叶わず、特別技術課程に入るまでに用意しろと言われた書類を半泣きになりながら仕上げるだけで精一杯だった。看護師は一日に三回、食事前後に体調計測をしていくぐらいで、蛍汰が何をしていても特に何も言わなかった。リハビリと体力づくりの散歩は理学療法士が決めたプログラム通りに決まった時間を費やし、徐々に疲れやすさも減っていった。  病院最後の日は四月にしては少し肌寒い日だった。退院診察を終え、蛍汰は簡易制服に着替えて迎えを待っていた。会計はサインだけでいいと聞いている。公傷だからいくつか書類を出しておけば、自己負担金はゼロになる。 「このまま営舎に戻るの?」  母の優里が畳んだ衣類を紙袋に入れながら言う。家から彼女が持ってきたものもあるので、片付けにきたのだ。 「はい」蛍汰は自分が作った書類に漏れがないか見返しながら答えた。 「足りないものなんか…ないわよね」優里は一通りの片付けを終えて、手持ち無沙汰になって蛍汰を見る。蛍汰はベッドに軽く腰掛けて手元の書類を一心に見ている。どうやら今日が提出期限らしく、さきほどからタブレット端末への入力と書類チェックを交互にやっている。  集中していて聞こえなかったのか、蛍汰はしばらく書類をめくっていた。が、少ししてから顔を上げた。 「足りないもの、ですか」  優里は驚いた。無視されているとばかり思っていたからだ。蛍汰とは、自由面会が許可されてからのここ数日、できるだけ一緒にいるように努力してきたが、彼は仕事に追われて優里との関係修復には全く興味を示さなかった。そして退院を迎え、このまま息子は音信不通になってしまうのだなと寂しく思っていたところだった。 「特に今は思いつきません」蛍汰はどうしてそんな質問をするのかという少し不思議そうな表情を浮かべながら答えた。優里は気落ちした顔は隠し、うなずく。 「そう、じゃぁいいの」 「あの」蛍汰は優里が背けた横顔を見た。優里はそっと蛍汰の方に視線を戻す。 「何?」 「あの、ありがとうございました。この前、自宅謹慎の偽装に付き合っていただいて」  優里は蛍汰をじっと見つめた。偽装、と言わないでほしかった。 「やっぱり違うなと思って。営舎の食堂の飯とは、違うなって」  蛍汰が少し柔らかい表情ではにかむように笑った。優里はコクリと唾を飲み、蛍汰が一体何を言い出すのかと軽く自分の胸を押さえた。 「おいしくなかった…ってこと?」  はは、と蛍汰が軽く笑って優里は目を丸くした。蛍汰はいつもより緊張していないようだった。優里と話すときは常にカチコチになっていた彼が、今は多少のギクシャクは残しつつ、時折リラックスした顔を見せていた。 「おいしくなかったら言いませんよ、こんなこと」蛍汰は笑みを浮かべたまま優里を見た。「おいしかったです。食ってて泣きそうでした。俺、すぐ泣くってよく怒られるんですけど、最初の朝に卵焼きを作ってくれたときに、うるって来ちゃってヤバかったです」  優里は静かに息をついた。そういえば心当たりがあった。互いに緊張したまま眠った翌朝、蛍汰が朝食をほとんど食べないうちに席を立ち、後で食べると言ったので、自分と一緒に食卓を囲むのが苦痛なのかと優里は思った。もしくは味に不満があったのだろうかと思ったものだ。しかしその後、蛍汰は本当にラップしておいた朝食を完食して皿もきれいに片付けたのでよくわからなくなった。それから昼も夜も特に違和感を感じさせずに食事風景は続き、どうやら食卓を囲むことへの嫌悪感でもなさそうだと感じた。よくわからないまま、優里は手探りで家事をしたのを覚えている。
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