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 優里は小刻みにうなずいた。「ええ…」 「いや…でも…」蛍汰は俯いて首をひねった。「やっぱり…それはちょっと」 「まだ私を許せないから?」 「え?」蛍汰は驚いて顔を上げる。それから苦笑いした。「許すとかそんなんじゃなくて」 「じゃぁどうして」と言い終わる前に、優里は蛍汰の表情で次の言葉を読み取った。 「永瀬少佐がいたりしたら、気まずいじゃないですか」  優里は蛍汰のその言葉に息を飲んだ。「知っ…」 「いえ、少佐からは何も聞いてません。ただ…いろいろ…そんな気が」  優里は呆然とした後、肩を震わせて笑い出した。  永瀬が妙に怯えていたのを思い出す。彼とは蛍汰が広川と出て行ってからや、入院している間など、何かと励ましてもらううちに親しくなったのだが、親しさを深めるたびに永瀬は蛍汰のことを口にしていた。どうやって切り出すべきか、そしてどうやって拒否できないように外堀を埋めるかと画策を語っていた。そうはいっても、あいつは先に勘づいてしまうかもしれないと、永瀬は息をついていたものだ。 「だから…卵焼きは大丈夫です。もう、あれで充分ですから」  蛍汰が書類をそろえて封筒に入れた。どうやら最後のチェックが終わったらしい。 「俺は大丈夫です。でも、もしかしたら永瀬少佐は時々、お借りするかもしれません。頼りになる上官だし、プライベートでもよくしてもらってるので」  さすがに義父になるかもとは言えなかった。蛍汰はそう思って自分の中で笑う。永瀬少佐が義父って。ありえねぇし。少佐だって嫌だろう。いきなり十八の子の親なんて。しかも俺って。 「もちろん」  優里は何とかそれだけ答えた。一気にいろいろなことが解決しすぎて頭が混乱しそうだった。蛍汰の方はどうやら準備ができていたようで、落ち着き払っている。優里は嬉しくてまぶたが熱くなるのを感じ、両手で顔を覆った。胸にあったわだかまりが溶けていく。  蛍汰が出ていった後、一時的には様々なものに依存した。アルコール、買い物、ギャンブル、軽いドラッグ。精神的におかしくなりそうこともあった。ただ、まだ幼い息子が逃げて戻ってくるかもしれないというかすかな気持ちが支えてくれた。いつ戻ってきてもいいように家を守らなければいけないという気持ちだけで何とか生きていた。待って待って待ち続けたが、息子が戻ってくることはなかった。もちろん新しい人生を歩こうとしたこともある。だができなかった。あの子が泣いて帰ってきたとき、ここに誰もいなかったらどうしたらいいのだろうと思うと、あの古いアパートメントを出ることができなかった。  八年後、ようやく息子がその八年間に何をしていたか知ることになった。テロ組織の内部から破壊工作をするテロ対策隊員。そんな危険なことをしているとは思っておらず、優里は驚いた。聞けば何度も命を落としかけているという。そんな仕事は今すぐに辞めさせたかったが、自分に口出しする権利がないのもわかっていた。そんな複雑な気持ちを解いてくれたのが永瀬だった。  最初は蛍汰を連れ戻したがる優里を引き止めるために話を聞いてくれたのだろう。優里は蛍汰を取り戻したくて全て話した。理解してもらいたかった。憎んでいるわけじゃない。ただ愛してしまうことが怖かった。蛍汰がどんどん思い通りにならない、一人の人間になっていくのが怖かった。  永瀬は話を聞いてくれ、それから優里が知らない蛍汰のことを教えてくれた。どんなことを学び、どんなことができるようになっていったか。基本的に兵士は単独でも生きていけるように全てのスキルを身につける。身の回りのことは一通り何でもできると聞いた。それに加え、演習としてどこでも生きて帰る訓練をする。だから必ず帰ってくる、大丈夫だと永瀬は確信を持って言った。優里の中にあった深い穴が少しずつ埋まっていき、不安が少しだけ小さくなった。
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