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「ほんとに、もう大丈夫なのね?」
俺は「うん」と頷き、「新薬のアビガンβが効いたみたいだ」と、妻に告げると網戸から流れてくる少し湿った匂いに夜半からの雨を予感した。古巣のソファの上に戻った家猫もヒクヒクと鼻を動かしている。
そんな俺を尻目に、マスク姿の妻と娘は先ほどから部屋中に除菌スプレーを吹きかけては、俺の触っていそうなところをタオルで懸命にこすっている。彼女らが帰ってくる前に俺が幾度となく入念に拭いていたのに。
*
いつまで経っても彼女らの作業が終わりそうにないので、家族の団欒前に勤め先へ電話を入れることにした。
「もしもし……」
応対に出た同僚の声は妙に懐かしかったが、彼の話を聞くうちに驚きで何度か声をあげそうになった。俺が新型感染症を発症したのと時を同じくして3人の同僚が、それに罹患したこと。そのうちの1人は副社長で、集中治療室にいる彼女だけはもう長くはもたないだろうということ。
スマホを切った俺は彼らに対する同情の念もそこそこに、明日からの自分の立場の方を思いやった。だってそうだろ、こんなご時世なんだから……。
たぶん勤め先では事実がどうあれ、俺が社内の第1の感染源とされ、出社したら後ろ指をさされるに違いない。
これからの日々が大変だ。
それを想像すると、俺は暗澹たる思いを抱かざるを得なかった。
「父さん、カレー作ったの?」
ともすれば闇に向かおうとする思考を中断された俺は「あぁ」と微笑んだ。
妻も娘もリビングの除菌を終えて、やっと落ち着いたらしい。
「カレー食べるけど、お前たちお昼ご飯は?」
*
久しぶりに家族で食べるカレーは実に旨かった。
そして味わいながら、ふと思った。
世界の終わりが来るとしたら、それは映画のように一気呵成に来るのではなく、今回の爆発的感染のように、秋から冬へ季節が徐々に移行するように音もなく、しかも確実にやってくるのだろう。そして人間は抗いながらも、いつしかそんな終焉を淡々と受け入れていくのだろう。
そのとき俺は、今のように最期の晩餐を心豊かに家族と囲むことが出来るのだろうか。
俺の気持ちに応えるように、ソファの上で家猫がニャァと鳴いた。
了
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