3.何でも大好き和子ちゃん

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 和子の胸に、黒い針がチクンと刺さったような小さな痛みが走った。  何も言えない。何も、分からない。 「それでね・・・・・・和子ちゃんはいつも、みんなに嫌いとか苦手があるから、喧嘩になったり問題が起きたりするんだって言ってて・・・・・・例えばね、野菜嫌いの子には、『ピーマン食べたら、いつかピーマンみたいな人と仲良くなれるから』とか、算数嫌いの子には『算数出来たらいつか外国に行った時にに両替で役に立つから』とか、なんかいろいろ・・・・・・そうやって良い方向に考えられるように諭してくれてて。  で、それでね。あたしは、小さい頃は今よりずっと引っ込み思案で、声の大きい子が何より苦手で、特にその、あいつ、武夫、声でかいやろ。態度もでかいけど。それで和子ちゃんが、『一緒にいいとこ探ししよ』って言ってくれて・・・・・・  ずっと2人で、武夫のことコソコソ観察したとよ。そしたら何か、係りが忘れとった花壇の水やりとか、小さい子の落とし物必死に探してやったりとか、そういう意外な人情のある一面が見えて・・・・・・だから、本当は、ガサツでもなくて、面倒見のいい優しいヤツなのかなって、思って・・・・・・見直して、それで、見る目が変わって・・・・・・意識、するようになって」  千恵美は俯いたまま、ちらりと和子の方を一瞥し、それから声を上擦らせて告白した。 「そんで、今、あいつと付き合っとるとよ」 「えっ」 「だから・・・・・・うちらのキューピッドは、和子ちゃんやから。感謝しとるし、いつか御礼を言わんばと思っとって。遅くなったけど、ありがとう。和子ちゃん」 「・・・・・・・・・・・・」  和子は言葉に詰まった。  まるで別の自分が1人歩きして行ったことを報告され、感謝されたような不思議な気分だ。  どういたしましてとか言えない。  だってそれは、『あたし』じゃない。  自分がやった記憶がないのに、それにたいしての感謝を受け取ってしまったら、なんだか人の物を勝手に取ったような感じになる。    困った顔をしている和子の心情を察したのか、千恵美は少し残念そうに眉を下げて笑った。 「和子ちゃん、なんか変わっちゃったね・・・・・・昔はもっと、明るくて朗らかで、みんなをグイグイ引っ張っていくようなパワフルさがあったとに・・・・・・今は・・・・・・いろいろあっちでもあったとやろうし、仕方ないことやろうけど・・・・・・あたしは、昔の和子ちゃんが、大好きやったよ」 「・・・・・・・・・・・・」 「それじゃ、またね」  千恵美は肩を落としたまま、4人の幼馴染みが待つ方に駆け戻っていった。  和子は結局、何の言葉も返せなかった。  ただその後ろ姿を見送ることしか出来なかった。  子ども時代の自分が輝いて、今の自分は暗闇にいるような気がした。  その頃と今が延長線で確かに繋がっているのだとしても、イコールではない。  『みんな大好き和子ちゃん』は、今はもう存在しない。  その呼び名に対する記憶が全くない訳ではない。  引っ越してきてからも、兄がからかってその名前で呼んでいたのを覚えているし、その影響で近所の同級生もその名を真似て暫く呼んでいた。  確か方言も、バカにされた記憶があるから、花居に越した後も数年は使っていたはずだ。  引っ越したからと言って、自分の言動や性格が変わる訳じゃない。  でも、あの頃を境に、あたしの中で何かが変わったのは確かだ。  あの子達が言ったようなポジティブな、太陽のようなあたしは、きっとそれから消えた。  引っ越した頃の記憶を思い出そうとすると、どこか苦しくて、辛い。  引っ越しがショックだったのもあるだろう。暫く借りてきた猫のようにおとなしかったと母がこぼしていた。  あの頃。  なぜそれほどまでに苦しかったのか。  その原因を考えようとしてみても、やっぱりそれは辛くて。  無理に思い出そうとすると、吐き気が催してくる。  消したい過去だとでも言うのだろうか。  和子の脳はなぜか、気づけば常に、その思い出を、記憶を遠ざけようとしているようだった。  ずっとずっと奥、記憶の片隅、更に見えない奥底まで。  心の鬱屈は、和子の精神状態を不安定にし、生来の明るさを消した。  何でも大好きだなんて、言えるような余裕はなくなった。  全てにポジティブに構えるなんて無理だった。  他の数多くの若者が辿るように、思春期になり、親や世間に対して批判的になり、愚痴も言うようになった。  それでも完全にネガティブな訳ではないし、基本的には平和主義で、協調性もある方だと思う。  これまでの10年で、和子は人と合わせることの大切さ、合わせないことの無礼さを学んできた。  奔放に生きるなんて出来ない。  そんな子ども染みたこと。    けれどここでは、まるで昔の自分が素晴らしかったかのように言われる。  昔の自分であることを期待され、強要されているさえ感じる。  あたしの中の何かが引っ越しと共に変わった。  思い出せない記憶の中に、その答えはきっとある。  でもそれを、無理強いさせないでほしい。  ムカムカし出した胃を押さえながら、和子は結局民宿へと引き返していった。
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