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4.天使の洞窟
7月26日
ザアアアアアア・・・・・・
無遠慮に軒を叩く雑音で和子は目が覚めた。
雨だ。どうやら梅雨の貴重な晴れ間は昨日一日のみで終了となったらしい。
青々とした海は曇天と共に暗いグレーに変わり、和子は幾らか自分のモチベーションが下がるのを感じた。
旅先で雨になることほど、気落ちすることはない。
念のため持ってきていた折り畳み傘を広げ、昨日ぶらぶらした商店街の中で見つけていた靴屋に出掛けた。
いかにも古く、カビ臭そうな靴が山積みになって陳列されている。
本当はお洒落なレインブーツが良かったけど、そんなものがあるはずもない。
子ども向けの年代を感じさせるキャラクター付きのヤツか、業務用の、工場とか釣りでおじさんが履いていそうな白のゴム長靴しかなかった。
子ども向けのは入らず、和子は渋々白の長靴の、いちばんサイズが小さいものを買うことに決めた。
いつから店内に放置・・・・・・いやいや、飾られていたのか分からないが、底に積もった塵や埃で、足の裏がザラッとする。
逆さにして降ってみても落ちないその粘着性のあるザラザラに、和子は更に苛立ちを覚えた。
普段だったら、こんな日はもう外には出ない。
でも、旅先の一日を民宿で過ごすほどの無駄もない。
とりあえず予定通り、今日はあの噂の天使の洞窟に行ってみることにした。
昨日通った田舎道が、今日は更に歩きにくさマックスのドロドロ道に変わっている。
水溜まりはもう、避けては通れない。
水に足を突っ込み進む度、映った和子の姿が波紋の中に溶けた。
岬に向かう途中、民家がまばらにある農村地帯を通りかかった。
道端にパトカーが停まり、赤いサイレンがくるくる回っているのが見える。
畑作業姿の老いた農夫に、警察官が何やら事情を聴いていた。
「牛が2頭・・・・・・そうです。つがいで・・・・・・2年前から飼っていて・・・・・・雄は特に上等の・・・・・・出荷直前やったんですが・・・・・・」
和子はテレビで頻繁に言っている動物連続失踪事件を思い出した。
あちこちの動物園などから生物がつがいで突然消える事件。
最近の報道では、ようやくカメラに黒い影の人物が確認されたらしいが、犯人確定には至っていないらしい。
日本全国とは言っていたけれど、まさかこんな田舎町でも起こっているなんて。
日々手塩にかけてきた家畜を突然奪われ、農夫は明らかにガックリと肩を落としていた。
和子は通り過ぎながら、その姿に同情した。
被害者からすれば、生活を狂わせる大事件だ。
犯人はその気持ちを考えたことがあるのだろうか。失った人の悲しみを考えたことが。
そしてそんなリスクを背負ってまで次々に盗むそのメリットとは何だろう。
海外にでも、密輸して売り捌いているんだろうか。でも、そんなの生き物だと、すぐに検閲で引っ掛かりそうに思えるけど・・・・・・。
まあただ1つ、確かなこと。
犯人が常軌を逸したイカれたヤツだってこと。
それは、間違いない。
ぴちゃ、ぴちゃり。
水溜まりの中を長時間歩き続けているためか、じんわりと長靴の中の靴下が、ねばつくように濡れ始めている。
今しがた買ったばかりだと言うのに、なんという防水性の弱さだろうか。
昨日履いていたサンダルよりはそりゃあまあマシだけど、帰り道がこれより酷い本降りの雨なんかになったら、靴の中に重い波が生まれそうで怖い。
そんな思いから気持ち早めに足を運んでいたせいか、目的地の洞窟には予定よりも20分早く到着した。
何のことはない。
自然の岸壁が裂けて出来た、普通の洞窟である。
鬱蒼とした森に囲まれてはいるが、西側の崖からは水平線が覗けている。
きっと晴天ならば、風光明媚な美しい観光スポットになり得る場所なのだろう。
洞窟の入り口付近に立てられた白い木製の看板は見るからに古く、長年風雨に晒されたためか、腐食してボロボロになっていた。
けれど『天使の洞窟』と書かれているのは間違いない。
文字は所々擦れて読めない部分もあるが、どうやらそのいわれが書かれているようだ。
『小学生2人がこの洞窟で遊んでいると・・・・・・天使が現れた・・・・・・は、彼らに話しかけ・・・・・・らは、その言葉を・・・・・・に、恐れおののき・・・・・・』
「恐れるって、何を・・・・・・?」
ドクン。
その時、デジャブのような恐怖感が和子を襲った。
いつか体験したことのある恐怖の記憶が、感覚だけ蘇ってくる。
背筋が凍りつき、心臓が早鐘のように波打つ。
息が詰まり、胸が搾られるように痛い。
苦しくて、動けない。
額からドッと、冷たい汗が噴き出す。
全身が金縛りのようになって、汗を拭くために腕を上げることも出来ない。
膝を折ることもままならず、ただ和子は、茫然とその場に立ち尽くしていた。
必死に、呼吸を繰り返す。
あの夢だ。
この感覚は、あの夢と、同じ。
ふと背後に何者かの気配を感じた。
ゆっくりと目線だけを後ろに向けると、おかっぱ頭の小さな女の子が立っているのが見えた。
この子、は?
小学校低学年くらいだろうか。
なぜこんなところに、と疑問に思う前に、その子の言葉が胸に突き刺さった。
『何でも好きになっちゃえばいいのよ』
あどけない、澄んだ瞳。
無邪気な明るい笑顔。
この子、この子は・・・・・・!
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