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母の滞在するブースの中に入り、一息ついてから、和子は母と稔彦にこれまでの経緯を話した。
ざっくりとだが、船に戻ってからのこと・・・・・・また船を降りるようになってからのこと・・・・・・。
「船から緊急用のゴムボートで脱出したんだけど、物凄い豪雨ですぐにボートが沈んでしまって・・・・・・とにかく泳いだんだけど、目的地が定まらないもんだから・・・・・・意識が朦朧としてきた時にちょうど流木・・・・・・と言うか家の柱みたいなのにぶつかって、それでそこにしがみついて、そのまましばらく流されてて・・・・・・半分失神してたのかな。
気づいたら近くを走ってた小型船に拾い上げてもらってたの。本当に、ラッキーだったと思う。死んでた可能性の方が、圧倒的に高かったと、自分でも思うから・・・・・・」
「・・・・・・そう」
「まあ、生きて会えた、それが何よりだよな!」
母も稔彦も、それ以上深く追及はしなかった。
本当は船で起こったことの詳細や、両目のケガを負うに至った経緯を聴きたがったに違いないのだが、和子の心情を察して今は聴く必要がないと判断してくれた。
和子がここにいる。
自分で息をし、話している。
それが現実で、全てだった。
和子は和子で、方舟がこの町に入港したこと、2人の男女の遺体が見つかったことなどを町の噂で耳にしていた。
稔彦がその辺りを危惧しているであろうことは分かっていた。
けれど、何も言わなかった。
説明して分かることでも、分かってもらわなければならないことでもなかった。
和子が暁を想っていることを稔彦は知っているし、それ以上のことを知らせる必要もなかった。
「今から配給取りに行くけど、一緒に来るか」
「あ、うん」
離れることに不安げな母に『大丈夫だよ』となだめてから、和子は稔彦と共に、配給場所となっている文化センターに向かった。
そこでは炊き出しが行われている他、様々な物資や水の分配がなされている。
またここも、奥のホールは避難所になっていて、和子たちの住むブースと同様に着のみ着のままの人たちが、段ボールでプライベートスペースを確保しながら生活していた。
皆、疲労と不安で顔を曇らせながらも、日々を懸命に過ごしている。
和子と稔彦がセンターの入口で今日の分の配給を受けようと並んでいると、奥の避難所の方から、中年女性の罵声が響いてきた。
稔彦が「やれやれ」と慣れた感じで言った。
「あそこの奥の一区画は、町外れにある療養型診療施設から避難してきた患者の区画なんだ。元々精神的に弱い人たちだし、この環境は厳しいんだと思う。
特にあのおばさんは・・・・・・毎日誰かにイライラを飛ばしてる。ストレスが限界に来てるのかもしれないな」
和子はその少し鼻にかかったような、周りの人々に対し敵対心を露にしている中年女性のハスキーな声に、どこか聞き覚えがあるような気がした。
知っている人であるはずもないのに、なぜか胸のざわつきが止まらない。
気づくと杖を突きつつ、声の方に足を向けていた。
和子が近寄っていくのに気づいて、稔彦は慌てて制止しようとしたが、和子の足は想定外に速く、その女性の至近距離にあっという間に入ってしまった。
女性は数人の中年男性と口論をしていた。
どこか野暮ったい臙脂のベレー帽に色褪せたグレーのジャケット、同色でまとめたスラックス。
上品ではないが、ラフすぎない姿。
稔彦はその雰囲気や、彼らのもったいぶった話し方を耳にして、彼らが何らかの件で訪れている刑事であることを推測した。
女性は彼らに吠えまくっていた。
「だから!あんたたちもしつこいね!息子のことなんてあたしは何にも知らないんだよ。一方的な手続きであたしをこの施設に放り投げて以来、1度だって面会に来ない薄情息子なんだからね。
年上の女教師と結婚したって聴いた時だって、封書で後日報告があっただけさ。相手の顔も素性も全く知らないよ。
お互い好き勝手やってるんだ。あの子のことをあたしに聴いても、とんだお門違いだよ」
和子は話の内容から、その女性が幼い頃に会った暁の母親であることに気づいた。
10年ぶりに聴いたその声はさらに頑なに、我が強くなったようにも感じる。
暁の母は、赤や黄色が点在する、大阪のおばちゃんでも選ぶのを躊躇するような、ド派手なヒョウ柄のロングTシャツを羽織っていた。髪は赤に近い茶色で、化粧も濃く、見るからに若作りをしている。
周りからバカにされないよう、年寄り扱いされないように自分なりに着飾っているのだろうけれど、それは逆にずっと彼女を老けさせて見えた。
万人が好感を持てないであろうそのファッションで歯を剥き出しにして威嚇する彼女に、刑事は毎度のことで慣れている、と言った様子で、淡々と棒読みに近い発音で言葉を返した。
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