51.『白』

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51.『白』

 燃えるような炎のレッド。  空に棚引く薄雲の、縁にあるペールグレー。  咲き乱れる花々の中央で輝く、花粉のカドミウムイエロー。  豪快に笑う俊彦のお母さんの、化粧っ気のない顔に浮かぶ、自然なコーラルピンク。  現実の世界が閉ざされても、夢の中では以前と変わらず、鮮やかな世界を想像することが出来た。  これはこれまでの記憶によるものなのかどうかは分からない。  男の人の夢はモノクロの夢が多く、女の人の夢はカラーが多いと、テレビで偉そうな先生が話していたのを覚えているけれど、和子の夢もそう、物心ついた時からカラーだった。  それは時に現実と見まがうばかりに鮮明で、生き生きとした色彩を放ち、きちんと太陽の光が当たった場所には影が出来ていた。  知らない町に夢の中で足を踏み入れた時などは、帰れるのかちょっと不安になったものだし、そこから戻るために冷静に、塀の角に佇むカーブミラーを覗き、その中に映る景色を確認したりしていた。  途中通った公園で触れた鉄棒はひんやりと冷たくて、錆でザラザラとしていた。  近くの子供たちはそれぞれの意思でスコップを持ち、砂山に足を突っ込んだりして、和子がそばを通りすぎても目も動かさなかった。  そうしている中でふと、和子は自分が夢の中にいる、ということに途中で気づくことがあった。  なんとなくだけど、現実の世界じゃない、というのが分かる。  そうすると和子はいろんなことを試してみたくなって、夢の中のいろいろな物に興味を持って、凝視したり、触ったり、臭いを確かめたりした。  しかしそうし出すと、決まって遠くの景色から蜃気楼のようにボヤけ出して、少しずつ濃い霧が辺りを煙で巻くように囲み出すのだった。  そうなるともう、夢は終わり。  和子はそこで現実の世界に帰り、その瞳を開けるために意識を脳に戻す作業をするのだった。  脳に戻す、というのは不思議な言い方かもしれないけれど、実際そんな感じなのだ。  夢を見ている時の意識はいつも現実とは別の場所にあって、なんというか、解放感がある。  そして戻ってきた時は、頭の中に、器の中に収まった、というような感じがするのだ。  和子は夢の中にいることが好きだった。  特に現実世界で光を見ることが出来なくなってからは、色彩豊かで前と同じように過ごすことの出来る夢の中はとても魅力的で、行きたいところに迷いなく駆け出せる自由は、とても心地よいものだった。  最近は恐れていたあの白い夢を見ることもなく、たまに悪夢を見ることはあっても、現実を思い起こせば、それほど怖いとも思わなかった。  眠りに逃げているというのもあるが、いつでもどこでも、本当に眠くて堪らない衝動が和子を襲っていた。  夜はもちろん、朝も昼も、それも布団じゃなく階段や外でも、急に猛烈な睡魔がやって来るのだ。  その度意識を失くして倒れ込む和子を、俊彦や千恵美が支えていた。  和子はずっと夢うつつの中にいた。  この目が開けない方の現実が夢なのではないかと思うほど、その境を行ったり来たりしていた。  夢の中では昔あった日常なども、よく繰り返された。  また様々な思い出も、再度起こっているかのように行われた。  朝御飯を急かす母の、洗い物をする後ろ姿や、目線を上げないまま挨拶する新聞大好きの父。  大学のサークル仲間を夜に5、6人連れ込んでは、2階でどんちゃん騒ぎを始める兄。  そして酔った勢いで階段を駆け下りてきて、突然和子に抱きつき、交際を志願してきたあまりよく知らない兄の友人。  呆気にとられつつも父と母は丁重に彼を外に放り出していた・・・・・・。  兄は騒ぎについて説教を食らっても大笑いで、何も気にしておらず、逆にそれを耳にした稔彦の方が、まるでレイプされたと聞きでもしたかのようにすっ飛んできて心配していた。 『大丈夫か?』  平気だよ、と面倒臭げにあしらったのに、ホッとして心からの安堵の笑みを浮かべた、あの時の稔彦の笑みを今でも覚えている。  稔彦はなぜ、そこまで想ってくれていたのだろう。  あたしは、自分の思う以上に、人によっては平均点以上に可愛かったのだ、と思う。  だからたまに告白されたり、好かれている、という噂を耳にしたりしたのだ。  たぶんとっても綺麗な子や、本当にアイドルみたいな子に比べれば、手に入りやすそうな、高嶺の花っぽくないちょうどいいところがよかったのかもしれない。  けれどあたしは、そういった男の子達からの好意を、嬉しいとは思っても受けとることはしなかった。  なぜかと言えば、関心がなかったからだ。  彼らが好意的に微笑めば微笑むほど、そのように笑い返すことの出来ない自分には、その想いに応える資格がないように感じた。  子どもの頃の記憶が戻った今となっては、あたしの魂はもうすでに、小さい頃から暁くん一筋と決めていたのだと分かる。  暁くんがいなくなった今でも、それは鈍らない。  それは何年、何十年経とうと、死ぬまで、死んでも、きっと変わらない。
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