2.記憶にない町

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2.記憶にない町

 7月25日  ゴトンゴトンゴトン・・・・・・  3週間後、和子は御船崎行きの電車に乗り込んでいた。  片道4時間の距離。  ちょうど夏休みに入ったこともあって、母には友人のマキと小旅行に行くと嘘をついてきた。  なんでって、よく分からないけど、どうしても行かなきゃならない気がする。  事実、この落ち着かない気持ちのせいで、この3週間、何も手につかなかった。  おかげで学期末の試験は過去最悪。  ただでさえ毎回叱られているのに、今回は進路を控えた大事な時期と言うのもあり、母に加え父からもクソ長い説教を食らってしまった。  でもそのお小言も、ろくに頭に入ってこなかった。    和子の頭の中ではずっと、あの時見た御船崎ののどかな港の景色と、飄々とマスコミに応じる同学年の美少年の声がリピートされていた。  ミーハー気分でとか、そーゆーんじゃない。そーゆうので、せっかくちまちま貯めてた貯金、全部下ろして出掛けたりしない。 『御船崎ーーーー、御船崎ーーーー。お降りの方は・・・・・・』  プシューッと、古い、ワンマンの私鉄電車のドアが軋みつつ開く。  和子は慣れない重さのキャスター付き旅行鞄を何とか引きずり下ろすとホームに降りた。  吸った息から不思議と何か、郷愁じみたものが込み上げてくる。  木造のカビ臭い無人駅の駅舎を通り抜けながら、早くも涙が滲んだ。  なんでだろう。  なんだ、この涙は。  そんな思い入れのある町だったら、なんで綺麗さっぱり忘れたりするんだろう。 「とりあえず、予約した民宿、探そ・・・・・・」  涙を拭い、ネットから印刷しておいたヨレヨレのA4の地図を片手に砂利道の上を歩く。  線路沿いの道の両脇には、太陽の光を受けて一層鮮やかに咲き誇る赤いカンナの花が植栽されている。  そのカンナの花の列の奥には、青々と繁った桜並木があり、高い位置にある枝葉は、火照った地面にゆらゆらと、モザイク状の踊るような木陰を作っていた。  思いがけず、久しぶりの快晴に恵まれた。  旅の初日にこれは縁起がいい。  梅雨明けはまだで、ここのところずっと雨続きだったから、木々や大地も喜んでいるに違いない。  全国何処も、ダムが貯水量いっぱいで限界寸前だってニュースで嘆いていた。  なかなかない梅雨の晴れ間。  今日は日差しも結構強い。  夏らしい1日になりそうだ。 「ふふ。あたしって、もしかして晴れ女かも」  現在暮らしているK県の花居は、一千メートルを越える高い山々の中腹にある人口一万人ほどの中規模の町で、中心部にはまあまあな規模の商店街もあるし、郊外にはちょっと大きめの動植物園もあって、人の流通量も比較的多い。  それに比べるとここは、空を囲うビルや塔もなく、平屋の民家が自然の中にポツポツと控えめに頭を覗かせる程度の過疎地に近い田舎町だった。  でも、美しい、いい田舎だ。  御船崎、という町名通り、道向うの丘の奥には、キラキラと光る藍色の水平線が見える。その上を操業中の漁船が、小さな影のように漂っていた。  花居が山の町とすれば、ここは海の町で、空気と自然にとけて馴染んでいるような潮風が心地よい。  そのまま暫く道なりに進むと、海を正面に坂を下った所から商店街が始まった。  タエ子美容室、スーパーイソモト、浅井衣料品店、林文具、といった個人名のついた商店が軒を連ねる。  覚えていないのだけど、何だか懐かしい。  心がムズムズ、ウキウキと跳ねるのを感じる。  殆どが木造建築、錆びた金属の板を使った手書き風の看板。  潮風に晒されてボコボコの肌になった木製の電柱が、おじいちゃんになった今も、懸命に働いている。  全てが経験したことのない昭和を思わせるようで、味がある。  ブリキのおもちゃ箱の中を歩いているような楽しさで、和子の顔は自然とほころんだ。  10円、20円の菓子が所狭しと並ぶ駄菓子屋で和子は棒付き飴を買い、そのままブラブラと町中を散策した。  そして探していた民宿を、商店街の終端近くで発見した。  ガラガラと軋むすりガラスの引き戸を開け、様子を窺うように首だけを覗き入れる。   「こんにちはー・・・・・・」  声をかけると間もなく、すぐそばの障子の向こう側から、エクボがチャーミングな、ふっくらとしたおかめのようなおばさんが現れた。  いかにも年季の入った古い民宿だ。  少なくとも築50年は経っていると思う。  壁の漆喰の色褪せ方や、高い天井の隅に張られたクモの巣の、溜まった埃を見れば分かる。 「どうも、いらっしゃい。ええと、ウチに予約入れてくれた泉和子さん?」 「あ、はい。そうです」 「やあっぱり!あんた昔、ここらへんに住んどったやろう?」 「えっ」  突然好奇心いっぱいの輝く瞳で、民宿のおばさんに方言丸出しで親しげに声をかけられ、正直和子は戸惑った。  そうだ。自分では覚えていなくとも、この町の人は自分のことを覚えていても不思議ではない。なんせ本当に小さな町なのだ。 「泉って名字も珍しいし。小さい頃やったからよう覚えとらんかもしれんけど、あんたはようこの辺で友達と遊びよったとよ。急な引っ越しやったもんねえ。お父さんお母さん、それにお兄ちゃんは、元気?」 「あっ、は、はい!げ、元気です!」  圧倒的なおばちゃんパワーで10年来の馴染みのように一方的に話しかけられ、和子は一瞬、もう帰りたいような気持ちになった。人見知りではないが、慣れない土地で知ったかぶりを演じるのも疲れる。  和子のその一歩引いた態度に自分のでしゃ張りを感じたのか、おばさん、もとい民宿の女将は話を切り替えると部屋への案内を始めた。  和子の重い荷物をその太い腕で軽々と掴むと、廊下の床板をギシギシ鳴らしながら進んでいく。    
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