青藍池

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青藍池

 巴也(はや)は、都会を後にした。  理由は、手伝ってほしい事があるからと、田舎の祖父から急な呼び出しがあったからだ。  もちろん、断る事もできた。  だが、10数年ぶりの帰郷は、故郷を突如離れることになった巴也にとって、自分を受け入れてくれるかどうかの心配をせずに戻れる良い機会だった。  それに、今、住んでいる場所はどこか空気が汚れていた。  実際、視界のあらゆるところに、淀んだ灰色の煙のようなものが漂っていた。  それは他の人には見えないらしく存在しないものだった。  ただ、巴也にだけ見えていた。    また、夜はいつも、似たような内容の悪夢を見ていた。  悪夢は幼い頃から見ていたが、ここ最近は特に頻繁に見るようになっていた。    これらの理由は全く分からなかった。    電車を降りて、一時間に一本のバスに乗り換え、最終停留所で降りた。そこから道なりに上ると、道は小径へと変わった。  暫くは、なだらかな傾斜が続いたが、日頃運動をしてない巴也は息切れが生じていた。  巴也は立ち止って辺りを見渡した。    小径の片側は林で、もう一方は拓け、大きな農家や畑が転々とあった。  犬や鶏などの動物が敷地を関係なく出入りし、道草を嗅いだり啄んだりしていた。  玄関が開いたままの家もあり、軒下には紐で結ばれた渋柿が何本も干されていた。  畑仕事をしていた村人が巴也の方を見ていたが、巴也が気付くと腰を丸めて作業に戻った。    30分程歩いたところで、ようやく大きな鳥居にたどり着いた。  鳥居から神社に続く参道へ、更にその奥へと目をやった。奥には龍鱗神社と呼ばれる神社がある。  時計を見たが、神社で祖父と落ち合う時間にはまだ早かった。  そこら一帯を見まわして、懐かしい、と巴也は思った。  以前、この龍鱗神社の敷地内に巴也は住んでいた。  巴也の家系は、代々、この龍鱗神社の神職をしていた。  龍鱗神社は白龍神を御祭神とし、龍の鱗が埋め込まれているという剣をご神体とする、創建1000年を超える由緒ある神社だ。  神社の手伝いや地域や村との調整を行う崇龍会という団体もあり、この地域では大事にされている名の知れた神社でもある。  毎年、行われる白龍神を祀る例祭が有名で、剣を持って舞う神楽は遠方から観に訪れる観光客も少なくなかった。  その例祭が、もうすぐ行われようとしていた。  例祭の準備を手伝う為に、巴也は祖父に呼び戻されていた。  巴也は拝殿を目の前にした時、呆然と立ち尽くした。  龍鱗神社についての最後の記憶は、7歳の時だ。    16年あまりの年月を経て古くなった、と感じるのは当然だが、古さよりも、廃れた印象を持った。  壊れている部分や、汚れている部分があるわけでもない。柱や壁にも大きな傷は無く、床にごみも落ちていない。  手入れや掃除は毎日欠かさず行われているように見える。  だが、日が差しているのに明るくない。  薄いグレーのセロファン紙を通して見ているかのように、照らされている場所が薄暗く見える。    また、神社にある特有の清浄な気が感じられない。  人里離れた誰も寄り付かない墓地や、かつて悲惨な事故のあった現場のような滞った気を感じる。    いつもの病気かもしれない。巴也は思った。  灰色の煙が巴也にだけ見えてしまう症状を、巴也はもはや病気と捉えていた。  どの科の医師に相談しても原因が解らず、巴也はもう探ることを諦めていた。  今だって、すぐ傍に煙は見えている。  いつもの病気のせい、そう割り切って、手を合わせ参拝した。  そういえば、と、神社の裏手に池があったのを思い出した。  由来などは覚えてないが、聖域だとかで、宮司であった父が大切に拝していた場所があった。 「えっと、池の名前は何だったかな……」 「――青藍池だ」  巴也は、驚いて後ろを振り返った。  真後ろに長身の青年が立っていた。  端正な顔立ちの青年は良く通る声で続けた。 「青藍池には龍神の霊が宿っているという。龍神の眼が碧色だったことから、そう名付けられたらしい」  巴也は青年に魅入った。  切れ長の目や整った顔立ちもだが、全体に漂う清々しい存在感に、なぜか懐かしさを覚えた。  幼い頃に遊んだ友人だろうか? 巴也には青年の名前が思い出せなかった。    ふと巴也は我に返り、目を逸らした。  人と接するのは余り得意ではなかった。   「あ、ありがとう。久々に来たので、この辺り、良く分からなくて……」  親しみの湧く明るい声で青年は言う。 「池に行ってみるか?行くなら案内しよう」  巴也は不意の誘いに少し驚いた。都会にいる時にはかけられなかった言葉だ。 「……いいの?」 「ああ」  颯爽と歩きだした青年の後を、巴也はついていく。  年齢は同じ位のようだ。名前を聞こうと思うが勇気が出ず、遠い記憶を探るが出てこなかった。  10分も歩いた所で、青年は立ち止った。  そこは、池全体が見渡せる神社裏の林の中だった。  記憶よりも池は広かった。  人の手が入っていない原生林に、直接、見たことのない葉や木が茂っていた。  青年は池の畔に佇んだ。 「この池は湧き水で透明度が高く青い。底が無く違う世界に繋がっているとも謂われている。そのため聖域として一般人は入れないようになっている」 「青……?」  巴也は不思議そうに眉をひそめて池を覗き込んだ。  池は青ではなく透んでもない。それに、手付かずの池なのだろうか。所々、錆びた鉄が落ちているのか赤茶色になっているのが気になる。以前もそうだったか? どちらにせよ綺麗な池ではないな。巴也はそう思った。
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