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剣は、異常に重かった。
稽古の比ではなかった。
痛みを通り越し、腕はもう痺れが生じていた。
それでも、剣からは決して手を放せず、舞を止めるわけにもいかなかった。
剣には、強大な龍神の力が満ちていた。
巴也の振るう一太刀一太刀に、邪気は一掃されていった。
だが、それと同時に、巴也自身の体力も、邪気に奪われていった。
巴也は、もはや、手の感覚を失っていた。
剣を正確に握れているのかさえ、分からなくなっていた。機械的に体を動かしているに過ぎなかった。
琉煌の吹く龍笛の旋律に合わせて正確に舞うこと、それだけが、今の巴也に出来る全てだった。
舞の流れを止められない。
型を繋ぎ徴を造らなければ祓いの効果は失せる。ただの無意味な動きと化してしまう。
隙を見せれば、邪気は瞬く間に巴也に襲い掛かってくるー。
雷鳴が大きく鳴り響いた。
その瞬間、
一時的に、巴也の耳が麻痺し、龍笛の旋律を聴き逃し、舞に綻びが生じた。
その隙を見破ったかのように、邪気は、剣を避けながら巴也の体にまとわりついた。
邪気は、巴也の足から腰、腰から腕、そして手から頭へと回り、顔へと迫った。
見た目には実体の無い靄のように見えた邪気が、いざ、体に付着するとそれは不気味な粘り気のある汚泥のような重みとなった。
巴也は舞を続けている以上、手が自由に使えない。
そして、僅かの間、不意を突くように、邪気が巴也の視界を遮った。
巴也は驚き、防御しようとして、無感覚の手から、剣が放れてしまった。
ーしまったー!
邪気が一気に、巴也に襲い掛かり、目を塞ぎ、口の中へと流れ込んでいった。
急に、闇となった視界に困惑し、空気も吸えず、呼吸ができなくなった。
それでも巴也は、慌てて剣を掴もうと闇雲に手を伸ばして探った。
だが、手は空を切るばかりだ。
ーく、苦しいー!
水の中にいるようだった。溺れている感覚だった。
意識が遠のいていった。
巴也は、もう、これまでか、と感じ始めた。
ー駄目だ、出来なかったー。やっぱり、駄目だったー。ごめん、琉煌、折角手伝ってくれたのにー。僕は、少しは邪気を減らせただろうか?葵生、君と同じように、僕も、もう死……ー。
巴也は闇に吸い込まれ始めた。
闇の中にー、死の直前の、葵生の姿が浮かぶ。
彼女は、剣を首に充てていたー。
自分の首を裂こうとしている月光色の刃に、小さな笑みを浮かべー愛おしそうに手を添えている。
愛おしそうにー…?なぜー?
剣を手にすれば、龍神は傍にいるー、
彼女は、彼が傍にいれば、死ぬことさえ、出来た。
それなのに、僕は、舞い遂げることも出来ない?
僕が舞い遂げることを、琉煌も望んでいたのに、僕は、琉煌に何一つ、返すことができずに死ぬー?
そうして、僕は、また、契約の舞を舞わず、邪気を祓わず、同じことを繰り返すのかー?
琉煌は、僕の願いを叶えるために必要なものを、全てくれたー。
僕を選んでくれたー。
数百年の時を経て、ようやく、君と僕の願いが叶おうとしているのに、途中でやめるー?
あり得ない。
君や村人達の思いを裏切る、2度目は無い。
ー琉煌と一緒に舞い遂げたいと切望していた剣の舞を、君のこんなに傍で舞えているのにー、途中で手放すなんてー、できない…、死んでも、放さないー!
巴也は必死に手を伸ばした。
ー絶対に、掴むー!
細長く光るものが微かに見えた。
巴也は、必至で"それ"を掴んだ。
「ーきゃっ!」
「ひっ!」
参列者は悲鳴を上げた。
驚いて立ち上がる者もいた。
顔を覆い、目を背ける者もいた。
飛び退いて椅子から転げ落ちる者もでた。
神楽殿に鮮血が飛び散ったー。
巴也の振るう剣から、赤いものが迸った。
血は巴也の手を伝い床に滴った。散って柱に付着した血は細長く垂れ、祭壇の上の奉納品は赤い粒模様を増やしていった。
それでも舞は止まらなかった。
巴也は剣を掴んでいた。
だが、掴んでいたのは柄ではなく刃の方だった。
刃は、ざっくりと巴也の掌から手首にかけて食い込んでいた。
激痛が走った。
だが、そのおかげで手の感覚が戻った。
巴也は、ほっとしていた。舞が繋がった。
巴也は剣の柄を握り直し、安堵して舞を続けた。
邪気が体から離れていった。
目も見えるようになった。
聴覚も正常に戻り、笛の調べが耳に届いた。
それから先は、何が何だか分からなかった。
銀色だった装束が赤く染まっていくのと、時々頬に温かいものが降りかかるのと、何度か床を滑りそうになったのと、舞い続けるうちに笛の音が止んだのだけは覚えていた。
まとわりついていた邪気がすっかり消え、神楽殿の周囲は、明るい光がちらついていたのもぼんやりと記憶にあった。
参列者達が泣いたり笑ったりして、心配そうに声をかけてくるのも断片的に見えた。
遠くで、琉煌が目を細めて、優しく微笑んでいるのだけは、鮮明に見えた。
巴也は、琉煌の笑顔を見て、最後まで舞えたんだ、と、深い安心感を抱いて、気が遠くなっていくのをぼんやりと感じていた。
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