D-1

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寝苦しい夜がようやくなくなってきた秋の始め、九月も終わろうとしていた。窓の外はすっかり日が落ち、表に出れば夏とは違う涼しい夜気が半袖シャツの素肌を心地よく撫でるだろう。 大輔は、小さな窓を縋るように見つめた。外の空気を吸いたくてたまらない。ここにいると息が詰まりそうだし――異常なほど居心地が悪く、逃げ出したい衝動を抑えるのが辛かった。 チラチラと辺りを見回す。そこは子供の頃に通ったような、古い小さな診療所だった。大輔が座るベンチは背もたれがなく、座面は硬い。そばの低い本棚には、何年前のものかわからないコミックや漫画雑誌が並んでいる。それだけならば、昔ながらの近所の診療所、という風景だ。 しかし――靴を脱いでスリッパに履き替えるタイプの、一段高くなった小さな玄関脇のパンフレットスタンドには最新の小冊子が並んでいる。それらが、大輔の知る街の診療所とは異なった。 性感染症について、妊娠をしたら――など、どれも大輔には馴染みがなく、刺激的な文字が並んでいる。 大輔は隣の男を横目で見た。隣の男――小野寺晃司(おのでらこうじ)は腕組みし、足も組んでふんぞり返っている。まるでいつもの晃司だ。太々しい――または堂々とした晃司の態度が、大輔にはまったく理解できない。なぜ、こんな場所でそんなに落ち着いていられるのか、と。 (晃司さんもしかして……婦人科に来たことある?!) 大輔と晃司が並んで座るのは、荒間署のお膝元――北荒間(きたあらま)にある古い婦人科医院だった。大輔もその存在は知っていたし、前を通ったことはあるが、足を踏み入れたことはない。プライベートでも婦人科に関わるような事態は、大輔の人生には起きなかった。 しかし晃司なら、女性に付き添って婦人科に来たことがあるのかもしれない。大輔は気まずさを忘れ、隣の恋人をジッと睨んだ。 「……お前も座ってろって。目の前ウロつかれるとウザいんだよ!」 恋人からの疑いの視線に気づかぬ晃司は、怒っていた。晃司と大輔の前を行ったり来たりしている若い男に。つまり、婦人科の待合室に男が三人も居座っていることになる。大輔は、改めてこの状況に辟易した。 「んなこと言ったって、座ってなんかいられませんよ! あのクソ客……マジムカつく! つうか刑事さん、ほんとにあいつ逮捕してくれるんすか?!」 激怒する若い男は、いわゆる黒服と呼ばれる制服を着ている。北荒間にある『ストロベリー・バス』というソープ店の男性従業員だ。 「逮捕するかはともかく……荒間署(うち)で他の警官が話聞いてるよ」 「なんで逮捕しないんすか! あいつ無理やり『本番』したんすよ?! それってレイプじゃないっすか!」 黒服の男が怒れば怒るほど、晃司は面倒くさそうに顔を歪めた。 「だから……話を聞いてるって言ってんだろ? 無理やりだったかは、被害を訴えてる側、訴えられた側、双方の話を聞いてからじゃないと判断できないし、決めつけちゃなんねぇの。もちろん、今受診中の嬢の方にも詳しく聞くし……診察中の医者にも確認取るよ」 「なんすか、それ! あいつが……優菜(ゆうな)がウソついてるって言うんですか?!」 「いやだって……ソープでゴム着けて挿入って……ただのオプションじゃねぇの、て話だろ」 「だから何度も言ってるじゃないっすか! うちはソープだけど本番行為は禁止してるし、店内にもメニュー表にもハッキリ書いてありますよ! 大体ケーサツが本番禁止ってルール作ったんじゃないっすか!」 「おい、まだ北荒間に来て短いらしいけど、それにしても教育がなってねぇ奴だな。ソープでの本番について警察問い詰めるアホがどこにいんだよ! ……たくあの髭店長、年取って仕事が雑になったんじゃねぇか」 晃司がウンザリして頭を抱える。生活安全課二年目の大輔も、晃司が苛立つ気持ちはよくわかった。 そもそもソープ店の黒服と、生活安全課の刑事二人が婦人科に来たのは、黒服が勤める『ストロベリー・バス』の女性従業員――いわゆるソープ嬢が、店で客から暴行を受けたとの通報を受け、彼女の被害状況を確実に把握するためだった。黒服は一緒でなくてもよかったのだが、どうしても彼女に付き添いたいと強引についてきた。被害を訴えられた客の男性については、荒間署の同僚――古谷桂奈(ふるやかな)と水口一太(みずぐちいちた)が事情を聞いている。 うなだれた晃司が、面倒くせぇなぁ、と職務怠慢とも取れる不適切発言を零す。暴行を受けたと訴える被害者がいるのに警察がこの態度では、当然非難されるべきだろう、本来は。しかし、大輔も晃司に近い心情だった。 なぜなら、女性従業員の訴えというのが、サービス中に客から無理やり――コンドームを外された、というものなのだ。つまり、『生』本番を強要されたという訴えだ。黒服は本番行為自体強制だったと譲らないが、その点については女性従業員は店に駆けつけた大輔たちにハッキリと話さなかった。 「ちゃんと話は聞くし、医者の診察結果で暴行の事実が判明するかもしれない。けどな、今のところ俺らは、嬢がオプションで本番をヤらせたが、生までは許してなかった。それなのに客が勝手にゴム外して、それで揉めたんじゃないかって考えてるよ」 「なんでそんな決めつけんですか?! うちの店は本番禁止にしてるって言ったじゃないっすか!」 「つったって、店に内緒で小遣い稼ぎに本番ヤらせる嬢だっているだろ? そもそもソープの本番禁止ルールなんて……俺ら警察向けの建前だろ、て警察にここまで言わせてくれるなよぉ。……なんで今夜に限ってベテランの黒服が誰もいなかったんだよ、あの店」 日本の法律は、あらゆる風俗店での挿入を伴う性行為を禁止している。――が、もし女性従業員と男性客が互いに合意して性行為に至った場合、二人が成人であり、店側の強制がないと証明されれば、警察も誰かを咎めることはしない。個人の性の自由を守る、というスタンスだ。 このように、ソープ店での本番行為は警察にとって微妙なグレーゾーンであり、ぶっちゃけ目を瞑っている現状だ。だから晃司も大輔も、今回の件は非常に厄介で取り扱いにくい案件だった。 女性従業員が本当に無理やり客に本番行為を強要されたなら、それは警察が扱う事件だ。しかし女性従業員が店に内緒で、もしくは店が黙認している中で、サービス料を上乗せしようと本番行為に同意し、しかし途中で着けると約束したコンドームを外され、約束が違うと怒っているなら、警察の出番ではない。女性従業員と客、または店と客の問題だ。 そんなことは北荒間で働く者なら男も女も、誰でも理解しているはずの話なのに、まだ北荒間で日が浅いこの若い黒服はまったくわかっていなかった。そして運が悪いことに、トラブルが起きた夜に限って、ベテランの店長や先輩の黒服が休みだったのだ。彼らがいたら、嬢が勝手にコンドームを外されたと黒服に助けを求めても、警察に通報するようなことはしなかっただろう。 それにしても――と、大輔は怒り心頭の黒服を見上げた。大輔たちが店に駆けつけた時から、若い黒服の怒りはいっこうに収まらない。客が風俗で遊び慣れた厚かましい中年男で、大輔たちが着く前に大分言い争ったらしいからかもしれないが、働き始めたばかりの若い黒服が女性従業員のためにこんなに怒るものだろうか。 大輔が気づくぐらいだ。晃司はとっくに察していた。 「それよりお前さぁ、気をつけろよ? 明日店長や他の黒服に今夜のこと報告する時、そんなにブチ切れまくってたら、お前があの嬢に気があるってバレるぞ。嬢が店に内緒で本番ヤってるのと同じぐらい、黒服が嬢に手を出すのもご法度だろ」 ズバリ言い切った晃司に、黒服の顔色がここに来て初めて赤から変わる。サーッと血の気が引き、青ざめていった。 「……は? え? なんで……?!」 「北荒間のことも風俗のことも、なんもわかってないお前でも、入店の時に真っ先に言われただろ? 絶対に嬢には手を出すなって。……バレバレだって、そんなに怒りまくってたら。付き合い始めたのは最近か?」 「ちょ、け、刑事さん! お願いっす、店にはこのこと……」 「やっぱデキてんのか。……言わねぇよ、傷害事件を増やしたくないからな。だから、お前が自分で気をつけろよ。バレたらお前も彼女も、本番がバレるよりキツい扱い受けるぞ」 ソープ店だけでなく、あらゆる風俗店では、男性従業員が店の商品である女性従業員と交際すること、関係を持つことを禁止している。それを破れば、男性従業員は重大なペナルティを加えられることが多い。それぐらいはこの若い黒服も知っていたらしく、神妙な顔になって大人しくなった。 晃司もズルいな、と大輔は呆れた。きっと怒れる若い黒服がうるさくなって、黙らせるために二人が付き合っていることを口にしたのだ。 晃司の目論見通り若い黒服が口を閉ざすと、古い婦人科の待合室は急に静かになった。そうすると、大輔は居心地の悪さを思い出してまた憂鬱になった。一刻も早く、この場を離れたい――そう願ってすぐ、奥の診察室から年老いた女性医師が出てきた。 白衣を着ていなければ、北荒間の古いラブホテルの受付係か、昭和なスナックのママのような擦れた雰囲気の老齢の女医が、腰に手を当てながら大輔と晃司の前に立った。 「一通り診察したけどね……暴行を疑わせる傷なんかはなかったよ。診断書出すのは難しいね。ま、あんたらが書けっていうなら書くけどさ」 風俗街『北荒間』に何十年も前からある婦人科の医師は、やはりただの街医者ではなかった。物騒なことを平気で言ってのける。 「警察は診断書偽造なんて頼まねぇよ。……じゃあ医師の見解としては、性行為はあったが強制されたものでなかった、てことでいいか?」 女医が難しい顔で頷く。近くの黒服が目を見開いた。 「そんなはずないっす! あいつは無理やり……」 「さっきからうるさい男だね。あんたの怒鳴り声は診察室まで聞こえてたよ。本当に北荒間の男か? それより……厄介というかめでたいって言っていいのか……面倒なことがわかったよ」 女医がゆっくりと黒服を見る。 「あの子、妊娠してるよ」 大輔は、あ然とした。隣の晃司も言葉を失っている。そして恋人のはずの若い男は――再び怒り出した。それもさっきより激しく。 「あの野郎……マジでぶっ殺す! 無理やり中出しまで決めてやがった!」 黒服は今にも医院を飛び出して行きそうだった。大輔は意味がわからずポカンとしたが、晃司が荒間署へ駆けていきそうな黒服を呆れ顔でたしなめた。 「アホ! たった数時間で妊娠するか!」 理解するのにかかる時間は、黒服も大輔も大して変わらなかったのだろう。二人の間抜けな男が、ほぼ同時にハッとする。 「……俺?!」 声を上げたのは黒服だった。叫んだ後、その顔はパァッと明るくなった。 「先生……マジっすか?! マジで……俺……父親?!」 アホ面――ではなく満面の笑みの黒服に対し、女医は渋面を崩さない。その事情は大輔にはまだ理解できず、晃司はすでに察しているようだった。 この時点で大輔にわかったのは、黒服が彼女にベタ惚れだということだけだ。大輔が、女医と晃司の渋い顔の理由を把握するのは、白髪の女性看護師に付き添われた黒服の恋人――ストロベリー・バスの女性従業員が診察室から出てきてからだった。 細身で可愛らしい顔立ちの若い女性従業員に、浮かれた黒服が駆け寄る。黒服が気づかないのが不思議なほど――彼女は戸惑っていた。鈍い大輔でもわかるほど。 彼女の困惑した表情と、浮かれきった黒服の態度の差に、大輔でも二人の恋に立ち込める不穏な空気をにわかに感じ取った。 「じゃあ……ちょっとまだ話があるから……彼女と……黒服、あんたも来るかい?」 女医は女性従業員と黒服に声をかけ、さっきとは違う診察室に二人を連れて行った。その時も黒服の足取りは雲の上を歩くように軽く、彼女の方は思い悩むような表情のままだった。 大輔は首を傾げて診察室に並んで入る二人を見つめ、扉が閉まると晃司に訊ねた。 「彼女が妊娠したってわかって、彼氏ってあんなに浮かれるもんですかね? 彼女の方は戸惑ってるようだったけど……」 「アレは……よっぽど彼女に惚れてんだろ。普通、彼女から妊娠してるって聞かされたら、あの若さじゃ驚いて混乱するよ。逃げ出す奴だっているぐらいだ」 ザ・男の本音を零した晃司を大輔はジーッと見つめた。 「なんだよ?」 「説得力あるなぁ、と思って」 「ば、バカ野郎! 俺は生理が遅れてる、までだぞ、言われたことあるのは」 「年末には隠し子疑惑もありましたけどね」 「あれは完全な捏造だったろ! 俺は……ウッカリ妊娠させるような乱暴な真似はしねぇよ」 晃司が早口になる。これは思い当たる節があるのだろう。大輔は小さく笑った。 「俺には縁がないけど……大好きな人が自分の子供を妊娠したって知ったら、やっぱり嬉しいもんですよね。そういえばうちの兄も、同棲中の彼女……今はもう奥さんですけど、が妊娠したって報告してきた時、すっごくニヤニヤしてましたもん」 愛し合う二人に子供ができたら、それはきっと本当に幸福なことなのだろう。強がりでなく、味わってみたいとはまだ思わないが、どんな感情なのだろうと素直に興味はあった。 晃司を愛する限り、自分には起こらない幸せだけれど――。 コツン、と晃司の肘が大輔を優しく小突いた。 「じゃあ今夜あたり……頑張ってみるか?」 「……なにをです?」 「子作り」 晃司がニヤリと笑う。大輔は真っ赤になった。 「なにバカなこと言ってんですか。晃司さん、最近セクハラがどんどんオヤジ臭くなってますよ」 「なんだよぉ……つれないこと言うなよ」 「てゆうか……今夜、そんな暇あると思います?」 大輔はしかめた顔で二人が入った診察室を見やった。晃司は、今気づいたかのように肩を落とした。 「ああ~、そっか……今夜も早く帰れそうにないか……」 面倒な案件はまだどれ一つ片付いておらず、大輔の懸念した通り、その日も北荒間の夜は長かった。 そして若い二人の恋は――一転、暗く悲しい結末を迎えることになる――。
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