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「え? 先月行った店? 稜、散々悩んでバスタにしてたよね。まだ気にしてたの」
事件解決直後だったので、二人とも気が緩んでいた。同僚がいなかったせいもあり、二人が思うより二人は傍目にも――イチャイチャしていた。
内緒話なのに互いに笑顔で見つめ合う二人は、捜査一課という職場にはまったく場違いだ。そしてそんなたるんだ二人を上から監視していたかのように、デスクの上に置いた香の携帯が着信を知らせて震えた。
画面に表示された名前に――香も、井上もギョッとする。その名は、一つ上の階にいるはずの警務部部長吉田だった。
「……どうぞ出てください、管理官」
一瞬固まった香にいつもの調子で軽く言って、井上は立ち上がった。上司からの電話に出ないのも不自然だが井上の前で吉田から――昔の男からの電話に出るのも躊躇われ、携帯はしばらくうるさく震えた。
「じゃあ俺、お先に失礼します。しばらく駅でブラブラしてると思いますけど」
井上に気にした素振りはなく、先に本部を出るが駅で香を待っていると教えてくれた。怒ってはいないのだろうか。香は井上の本心を気にしながら、電話に出た。
『お、やっと出たな、香』
電話の向こうの能天気な声にイラっとする。
「……どうしました?」
すぐにこの場を離れるかと思った井上が去っていかないので、香の声は必要以上に冷たくなった。井上に吉田との会話を聞かれるのは、やましいことはなくても気まずい。
ふと、井上が体を屈めた。香のデスクに手をつき、パソコンの画面を覗くような素振りで香の耳元で囁く。
「……浮気したら、お仕置きだからね」
職場だというのに不適切極まりないことを言って、井上は失礼します、とその場を離れていった。去り際、とびきり甘い――な煽情的な笑みを香にだけ見せて。
香はニヤけそうになるのを懸命に堪えた。お仕置きも悪くないな、と不埒な思いが脳と下半身をよぎる。
『お~い、聞いてるのかぁ?』
「……失礼しました。それで、どういったご用でしょう?」
浮ついた――幸せな気分は、電話の向こうの男のせいですぐに打ち消された。
『ひどいな、全然聞いてないだろ。今、上に来れるかって言ったんだよ。事件解決したんだろ?』
「は? 電話してきたんだから、今仰ってくれればいいじゃないですか」
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