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『電話じゃできない話なんだよ。いいから早く来ないと……一課の課長に穂積が言うこと聞かないってチクっちゃうからな』
県警ナンバー2ともあろう男が、あまりに幼稚なことを言うので呆れ返る。そしてこの男がこうなってしまったら、言うことを聞くまで引かないのはよく知っている。香は電話を切る前に席を立った。
「……すぐ伺います」
歩きながらそう伝え、電話を切る。刑事部のフロアを出て、エレベーターホールに向かう道すがら、勝手にため息がこぼれた。
吉田のせいだ。井上との関係を知られてから、吉田は不自然なほど香に絡んでくるようになった。電話も久しぶりではない。何度かかかってきていたが、忙しさのせいにして出ないようにしていた。
吉田との関係は、完全に切れたことはないが、これほど構われたことはない。十年近く前、香が吉田を好きだった頃も。
やって来たエレベーターに乗り込み、一つ上の九階に向かう。ボタンを押すのも憂鬱だ。
吉田の考えていることがわからない。昔の愛人に恋人ができたことで、急に捨てた愛人がもったいなくなるタイプでもなかったはずだ、吉田は。そんなにわかりやすい男だったら、香も惚れたりしなかった。
ため息を吐きながら、九階の奥にある警務部部長室に着くと、深呼吸してから扉をノックした。
「入りなさい」
「……失礼します」
秘書がいるだろうか、と期待しながら中に入るも、吉田は一人だった。誰かいればもう少し気が楽になるのに――と香は不機嫌になった。香も吉田が一人だったので、昔のよしみで遠慮がなくなる。
「なんだよ、その顔。上司に見せる顔じゃないぞ」
そんなことを言いながら、吉田は嬉しそうだった。ニヤけた二枚目にイライラが募る。相変わらず見た目に気を遣っているのか、容姿だけはかなりイケている。五十手前の年相応の相貌だが、それすらも魅力にしているところが腹立たしい。甘く整った顔に昔より深く刻まれた皺が、中年男の色気を増している。
「もう帰るところだったんですよ。早く……電話じゃ言えないとかいう用件を話していただけますか?」
「あ、わかったぞ。事件が解決したから、今夜は久しぶりに井上くんとデートだったんだろ。そりゃあ邪魔して悪かったな」
一ミリも悪いと思っていない笑顔だった。香は吉田が――悪魔に見えてきた。
「で? どんなお話でしょう?」
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