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「お前は本当に……そういうとこ、女性っぽいよな。昔の男なんて用無しって態度。俺は、お前と別れたつもりもないのに」
「はいぃぃい?!」
やり合えばやり合うほど、香の負けが濃厚になっていく。吉田はどこまでも――食えない男だ。
これ以上なにを言えば吉田を黙らせられるかわからなくて、香の方が黙ってしまった。そんな香を、吉田がいっそう嬉しそうな笑顔で見つめる。
怒りと呆れと――やっぱり怒りで混乱していると、救いの手が届いた。ジャケットの胸ポケットに入れた携帯電話が震えたのだ。
井上かと期待して携帯をチェックするも、相手は捜査一課課長の福本だった。残念な気持ちも起きたが、救われたのは違いない。香は、課長からです、と吉田に断って急いで電話に出た。
「課長、どうしました?」
『穂積、もう本部から出たか?』
「いえ……まだいます。ちょっと……上に来てますが」
ああ、と福本はなにかを察したようだった。
『そっか、じゃあ……上での用事が済んだら至急こっち戻って来てくれないか。O駅の近くで男性の変死体が見つかった。まだ司法解剖はすんでないが、現場に行った所轄の話じゃ刺殺で間違いないだろうって』
新たな殺人事件発生の報せだった。香の顔が引き締まる。
「わかりました。すぐに戻ります」
電話を切って吉田を振り返る。
「事件のようです。急ぎますので、失礼します」
「そりゃあ……仕方ないな。じゃあ今度の事件が解決したら食事に行こう。香の好きな店に行こうな」
香は返事はせずに、小さく頭を下げてその部屋を出た。新たな殺人事件は悲劇だ。けれど、吉田のしつこさにウンザリしていたので助かった。
部長室を出るとホッと息を吐いた。そして次の瞬間――ガックリとうなだれる。
吉田の誘いからは助けられた。だが、新たな事件発生ということは――今夜のデートは延期だ。
泣きたいのを堪え――恋人に電話をかける。恋人は、ワンコールで出てくれた。
「……井上巡査部長、すぐに戻れますか? 変死体が発見されました」
吉田から救ってくれた事件は、貴重な恋人との時間を潰し、香を絶望の淵に叩き落してもくれた。
香と井上、二人の恋に事件はつきものだった。
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