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3,それからの日々
あれ?
ここ何処だろう?国語は?
事態を把握できないまま辺りを見回すと、どこかで見たことのある和室にいることが分かった。ぼーっとする頭をフル回転させると徐々に既視感の正体が分かってきた。にわかには信じがたいけど、昨日見たドラマの夫婦が住む家の仏間に来てしまっていた。しかも、このアングルから室内を見回せるとなるとどうやら私は仏壇に飾られている亡き妻の遺影に入ってしまったらしい。
想いの強さが現実と虚構の垣根をも越えていくということに驚きつつ、三大欲求のうちの一つに打ち勝つほど気になっていた物語の世界に入れたことはものすごく嬉しい。しかし、物語の中には入れても今の私は写真だからこの場から動くことは出来ない。
デジタル時計の日付が目に入った。ん?日付が正しい。
正しいと言うか私の生きている世界線と同じなのだ。と言うことはこれは現実?
物語の中の彼らも同じように年月を過ごしていると言うこと?
もし、そうなら卒哭忌から6年が経った夫の家に私はいるんだ。
今どのような生活をしているんだろう……まだ悲しみの中にいるんだろうか。
その夫はというと私が見ている目の前、亡き妻の仏壇の前で気持ちよさそうに眠っている。こんなに心地の良い風が吹き込むお線香の香りが広がった部屋にいれば昼寝もしたくなる。もっとも外の様子を見るともう昼寝と呼べるような時間ではないけど。
そんなことを思っていると腕がしびれたのだろうか、夫がやや身じろぎをしうっすらと目を開けた。起きるのかなと思ったが、微睡みの中何度かまばたきをしてから襲ってくる眠気の波に身を委ね再び眠ってしまった。
仏間の障子は全開にされており、この時期のこの時間帯特有の何とも言えない心地のよい物悲しい風が物干し竿に吊るされたTシャツやタオルをひらひらとなびかせている。
もうそろそろ暗くなり始めるから洗濯物取り込んだ方がいいのになあと思っていると、
「……ん、……せんたくもん」
という声が聞こえた。びっくりした、寝言か。彼はどんな夢を見ているのだろう。そういえばドラマで夫が洗濯物取り込み忘れて妻とケンカになるシーンがあったなあ。もしかしたらその時のことを思い出しているのかもしれない。
風が再びすっと吹く。外を見ると街が朱鷺色に染められていた。仏壇に飾られた妻の写真の服も朱鷺色のカーディガン。街が彼女のふわっとした優しさに包まれているように感じた。彼が起きていないことが残念でならない。
「……かおが……」
かお?ああ、顔か。再び寝言が聞こえた。彼女の顔かな?ケンカしているシーンの彼女の顔は怒っているのにめちゃくちゃに可愛かった。画面越しの私でさえ気付かないうちに「……カワイイ」と呟いていたんだから、目の前にいた彼はどんな思いだったんだろう?ケンカなんて吹っ飛んでしまいそうだった。
今度の風はどこかの家で秋刀魚を焼いているにおいを運んできた。寝ている彼にもにおいが届いたのだろう目を閉じながら鼻で大きく息を吸い込み、ふぅと息を吐きながら目を開けた。今まで眠っていたから分からなかったがやはりドラマの時より年を取っているのが分かる。でも、以前のような隠しきれない絶望が張り付いた顔は見られず、寝起きのぼんやりとした表情の中に穏やかな強さが見えた。
なんだか急に視線を感じる。
彼がこちらを見ている。横になったまま顔だけをこちらに向けて。
わあ、目、合ってるよ。
彼はこちらをじっと見たままスッと立ち上がり、仏壇の前に正座をする。ロウソクに火をつけ新しいお線香を二本取りだし火をつけ、短くなったお線香の隣に立てながら、泣きたくなるぐらい優しい声で彼女に語りかけ始めた。
「貴方がいなくなってから六年も経つのに、この季節になると決まってあの日のことを思い出すんだよ。他に想い出なんてたくさんあるのに。
……風になんかならないで、においになんてならないで貴方が来てくれればいいのに。
……え、違うよ、もう泣いてなんかないよ。それにあの日だって貴方に喜んでもらうために秋刀魚焼いてたら、煙が目に入ったんだって。忘れないよ、初めての仲直りなんだから。わ、もう洗濯物取り込まなきゃ。怒られたくないからねー」
そう言い残して彼は立ち上がり、外に干された三日分の洗濯物を手際よく取り込み、すぅと一つ深呼吸してからドアと障子とカーテンを閉めた。
街はもう朱鷺色ではなく、においを乗せた風が彼に吹くこともない。
しかし、明日もあの日の彼女は風にのって彼の記憶のスイッチをスッと入れ、彼と会うのだろう。私が知らないだけで二人は毎日会っているんだ。
洗濯物を抱え「あ、今日秋刀魚にしようかな。めんどくさいかなあ……でも食べたいなあ」とかなんとか言いながらキッチンの方へ消えていった。私の見える画角から彼が消えたのと同時にどこからかスッと風が吹き目の前が暗くなった。
また風がスッと吹いたのを頬に感じる。
……あれ?教室?私、今まで寝ちゃってただけなの?
教室には何の変わりもなく子守歌が漂っている。仏壇もお線香も畳もない。
さっきのことが現実か虚構かはもうよく分からないけど、どっちにしても物語の続きを作るのは自分自身なんだろう。あの二人も私も。それが明るい未来であろうと暗い未来であろうと人は自分の物語を作って生きていくんだろう。なんだか安心した。
もう一度私の頬をスッと撫でた風は秋刀魚の匂いがした。
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