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男は走っていた。
その形相は、『必死』を絵に描いたような有様だ。
中年太りした体型と比例するような、お世辞にも早いとは言えない速度で走りながら、アンブローズ=ウェルズという名の男は、チラチラと背後を気にしている。
大した距離を走っていないはずなのに、彼の息はすでに上がっていた。それでも、懸命に足を一歩一歩前へ踏み出す。そうすれば、救われると思い込んでいるかのように。
陽が暮れたあとの路地裏は、街灯の明かりも届かず、薄暗い。
しかし、入り組んだ路地の奥まった場所にあり、いつもは心細いような暗がりの中に浮き上がって見える自宅のドアが、今日ほど頼もしく見えたことはなかった。
彼なりの『全力疾走』で自宅へ駆け戻ったウェルズだったが、その鍵を、いつもの習慣で財布の中へ入れていたことを猛烈に後悔した。臀部のポケットから財布を取り出し、その財布を開いて鍵を取り出すという、普段なら造作もなくできるはずの作業が、焦る気持ちからかちっとも捗らない。
こんなことになると分かっていたら、首からチェーンで下げる習慣にしておいたのに。
脳裏で独りごちながら、小刻みに震える指先でキーホルダー付きの鍵を取り出す。小銭が釣られるように引きずり出され、軽く甲高い金属音を立てながら地面へ散らばった。平時ならそれらを拾うだろうが、今日はそんな余裕はない。命あっての物種だ。
やはりしきりに背後を気にしながら、まだ震えている指先で、必死に鍵を開けようとする。けれど、今度はその鍵先が、中々鍵穴に入らない。
早く、と焦れば焦るほどに手は尚のこと震え、思う通りにならない。
ああ、どうして鍵穴は二つもあるのだろう、と、この日に限ってウェルズは真剣に考えた。
留守中に泥棒に入られなくとも、自分を守ってくれるはずのこの扉が、たった今開いてくれないことにはどうしようもない。
ようやく、縦一列に二つある鍵穴の内、一つに鍵を差し込んだ、その時。
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