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アパートに戻ると、熱いシャワーを浴びた。肌に刺激を受けている間は、何も考えずにすむ。浴室を出ると寝間着を着て、冷凍庫から大きな氷を一つ出し、ロックグラスに放り込んだ。酔いは醒めていて、身体の芯に重い倦怠感だけが残っている。
ベッドに腰掛け、グラスとミネラルウォーターをサイドテーブルの上に置いた。ウイスキーのボトルは、最初から置いてある。
テレビをつけ、音を消す。まだ日付も変わっていない。字幕だけのニュースを横目に、水割りを作った。一口呷り、舌打ちをする。
「まだ、遠いな」
彼女の、彼女の作る水割りの味を、思い出す。学生時代に水商売でバイトをしていたという彼女は、酒を作るのが上手かった。水割りも、酒の種類によって配分を変える。同じウイスキーでも、銘柄が違えば加える水の量も変えなければいけない。混ぜ方だって、気を遣う必要がある。
そう得意げに語る彼女が作ってくれた水割りは、いつも染み込むようにして柳瀬の心を酔わせた。
彼女が事故で死んでから、約一年。あの味を再現しようと、毎晩自分で作ってみるのだが、一向に上手くいかない。何度も失敗作を呑んでいるうちに、眠ってしまう。彼女が死んでからは、そんな毎日の繰り返しだ。
化けて出る。坂口の言葉を思い出す。そういえば、彼女も言っていた。
自分が作った水割りを呑む柳瀬の隣で、色気と慈愛が入り交じった視線を投げつつ、ふざけた声色で言った。
「……化けて出るから」
彼女の声は、まるでピアノの鍵盤を叩いたときのような響きがあった。真っ直ぐな響きが、耳の中にまだ残っている。どんな会話の流れで、そんなことを言われたのか。それは、覚えていない。
物足りない水割りを流し込みながら、記憶を辿る。影のある微笑みだけが、泥のような景色の中で光っている。
夜の世界にいたからといって、擦れた感じはなかった。明るくて、それでいて過度に笑うことのない彼女。彼女を思い出す代わりに、いや、思い出さないように、代償として彼女の味を追い求めているのかもしれないと、柳瀬は曖昧な意識の中で考えた。
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