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狼の咆哮1
兄貴についた鎖がじゃらりと鳴る。思いっきり鎖を引っ張られ、兄貴が顔を顰める。それを見て反射的にナイフを抜きそうになったのをハッとして止める。
「……辞めて頂けませんか」
慌てて後ろ手にナイフを隠し、男たちを見上げる。体を震わせ、両手を組んで懇願する。だが、兄貴を地面に引き倒そうとする男たちは、鼻で笑っただけだった。
「駄目だな、こいつは神聖国人じゃないか」
ガタイの良い坑夫といった様子の男たちが、兄貴を取り囲んでいる。
「許して下さい。わざとでは、無いのです。彼は僕の奴隷です。貴方達を決して害したりは致しません」
兄貴と旅をして数日。厳しい山間を抜け、ようやく街道に出た。人らしい道にホッとして、兄貴とのんびりと道を歩いていたのが悪かった。というよりも、運が悪かった。担いでいた荷物がすれ違った際に、ガリエルノ人の集団に軽くぶつかり合り、よりによって兄貴の顔を隠していたフードがとれてしまった。
神聖国人らしい色素の濃い容姿が露わになり、それを見咎めた男たちが、兄貴が気に入らないとイチャモンをつけてきたのだった。
俺は育ちのいい坊ちゃんダニエル君なので、丁寧な口調で許しを乞うが残念ながら聞いてくれそうにない。
「いいや、あるさ。俺らの村はコイツらに襲われかかったんだ。それに、神聖国人は俺たちを蛮族と蔑んでいるそうじゃないか。今回もわざと当たったに違いない」
「そんな、彼は昔から僕に仕えてくれている奴隷です。貴方達の村なんて襲える筈がない」
ふるふると頭を振って、否定する。まあ、嘘だけど。むしろ攻めてきた将軍本人だけど。口が裂けてもそんな事言えず、俺はむず痒い気持ちになる。
「そんなの俺たちには分からない。俺たちはただ神聖国人にぶつかられて気分が悪いんだ。その償いをして貰おうとしているだけだ」
「そうそう、俺たちは被害者だ。当然だろう」
男たちが口々に騒ぎ立てる。
「そんなあんまりです」
男たちは俺の弱気な姿を見て、ニヤニヤと笑う。
「別に謝るのはお坊ちゃんでもいいんだぜ」
「はい、だからこうして謝罪して?」
「がははは、そうじゃねえ。そうじゃねえよ」
そう言って、男の土に汚れた手が俺の髪を掴む。
「可愛い子ちゃん限定の謝り方があるだろう」
グイッと引っ張られる。
「痛っ」
「ああ、柔らかい金髪だ」
嫌らしい笑みを浮かべて、男が俺の髪にキスを落とす。さらにそのまま髪に頬ずりをされたからたまったもんじゃない。臭い息が吹きかけられる。もう、我慢出来そうにない。俺はゆっくり膝をあげ、そのまま膝蹴りをかまそうとする。
「こいつに、触れるな」
俺に触れていた男が吹っ飛ぶ。俺はあんぐりと口を開けて、行き場の失った足が宙に浮く。
いつの間にか、男たちを振り払った兄貴が、その長い足で男を蹴り飛ばしていた。地面に倒れた男を見ると分厚いブーツの底の跡が見事に男の顔に付いている。アクセントのつける場所が分からなかったのか、その言葉は拙い。だが、しっかりとしたガリエルノ語だ。兄貴は現在、ガリエルノ語を勉強中だ。
「ふざけるなよ! 奴隷風情が!」
「よくもゲリルを!」
周りの男たちがいきりたつ。兄貴はそんな男たちの様子など気にも止めず、俺を肩をぐっと抱き寄せる。そして男に頬ずりされた髪についた泥を、パンパンと乱暴に払って見せる。
「やめろ……汚い、豚」
凍りついた薄墨の瞳で兄貴は言い捨てる。やけに様になった様子で顎をあげる。格下だと思っていた奴隷に煽られた男たちの顔が怒りで真っ赤に染まっていく。俺はしまったと頭を抑える。絶対に単語の意味を間違えて覚えている。
「勘弁してくれよ、兄貴」
俺が神聖国語で小さく呟く。
「なんだ、何か間違ったことをしたか?」
そう言って、兄貴が首を傾げて神聖国語で返してくる。間違ったガリエルノ語は良くない。けど、悪意を持った言葉だという事には間違いないから、案外正解なのかもしれない。
「いや、何も。でも、まあ。もうちょっとガリエルノ語をお勉強しようぜ」
正しい言葉が使えるように。もう今更遅いが。
「ふざけんな! てめえ」
「ぶっ殺してやる!」
その殺気立った姿に、兄貴が首を傾げる。
「なんでアイツらはあんなに怒っているんだ? 丁寧に、汚れた手で触れないで下さいと言ったのに」
短い髪がさらりと揺れているのを見て、俺は何とも言えない気持ちになる。
「色々、足りてないなあ」
成る程、手と豚の発音を間違えた訳か。まあ、ガリエルノ語では一音違いだから、無くはないか。あと、丁寧語である接頭語の発音が良くなかった。そんな間違いもあるよね。俺は絶対に間違え無いけど。
汚い家畜扱いされた男たちは、腰元から武器を取り出す。軍用ですらない、そこら辺の鋼を研いだだけの粗末な剣だ。その剣先が俺たちに向けられると、兄貴の目が剣呑に細められる。
「武器を持ったな」
素早い動きで背中に隠すように担いでいた剣を抜き出す。スラリと抜き出された刃先は美しく研がれ、その柄には豪奢な装飾がついている。慣れた様子で柄を握りしめ、男たちに突きつける。身長が高く、骨格のしっかりした神聖国人はいるだけで圧迫感がある。男たちは兄貴のその仕草に少しだけたじろぐような様子を見せる。
「ダニー、下がっていろ」
まるで庇うように背中に隠される。
「いや、待て待て。こんな所で騒ぎを起こすな。ここは穏やかに交渉をだな」
慌てて言い募るが、兄貴が首を振る。
「いや、もう遅いな。来たぞ」
ジャリっと兄貴が軸足に体重をかける。兄貴の目に殺気が篭る。
「うおおおお」
男の一人が剣を振り上げて襲いかかってくる。
「うわ、大振り」
軍人じゃない俺が見ても分かる位、隙だらけの構えだった。兄貴がそれを迎え撃つように剣を水平に構えるのを見て、慌てて腕を引っ張る。どう見ても、刺し殺す角度だ。
「邪魔するな。向こうが武器を持って襲ってきたんだ。こちらが応戦して何が悪い」
そうだった。兄貴はまだガリエルノ人を隙あらば、殺そうとしているんだった。街道が男たちの血で染まる予感がする。
「「駄目だ!」」
自分の声と誰かの声が重なる。それと一緒に勢いよく兄貴の袖を引っ張ってしまい、兄貴が態勢を崩す。
「ダニー! 武器を持った人間の邪魔をするな。危ないだろう」
「ああ、危ないな!すまん!」
兄貴が俺を咎める声に返事する。仰る通りだ。だが、今は説教を受けてる場合じゃない。同時に聞こえた声が気になって俺は後ろを振り向く。
「なっ、なんで止めるんですか? デルト様」
俺たちに襲いかかろうとしていた男たちが武器を持ったまま、戸惑った声をあげる。
「それが僕の命令に反した事だからですよ」
いつの間にか、俺の後ろにはガリエルノ人の集団がいた。まるでその集団は真ん中のローブの人間を守るように周囲を固めている。顔を大きなローブで隠した小柄な人間は、子供のような高い声で柔らかに男を咎めて見せる。
「しかし、こいつは俺たちにわざとぶつかって来て……」
男が言い淀む。
「そうなのですか?」
ローブの人間が少しだけ俺たちに向かって前に進み出る。思った以上に、その人間は小柄だ。俺よりも随分と背が低い。
「えっと」
戸惑い言葉を濁す。すると直ぐに護衛らしき大柄な男が俺の前に立ちはだかる。どうやら目の前の人物は随分と重要人物らしい。
俺はまじまじと目の前のローブを着た人間を観察する。白い絹糸で編まれたローブには金の糸で刺繍が施されている。ローブの隙間からは、淡い茶色の髪が覗き、影の奥には柔らかな輪郭と大きな瞳が見える。
ローブの人物は俺をじっと見つめている。俺はゆっくり頭を横に振る。
「いいえ。確かに私の奴隷は彼らにぶつかりました。しかし、故意ではありません。女神に誓って」
俺は膝まづき、胸元に手を当ててゆっくりお辞儀する。
「……ああ、よかった。森の女神の信徒ですか。安心しました」
ホッとしたような声がして、フードが取り払われる。そこにいたのはまだ子供だった。レイよりも少し年嵩と思われる少年は、優しい顔立ちをしていた。薄いグレーの髪は短く切られ、大きな澄んだ泉の色が印象的だ。その右の耳朶には耳飾りで隠され、彼が動くたびにチリンと音を立てる。大袈裟に護衛される育ちの良さそうな子供。
ーーこういう時の俺の嫌な感はよく当たる。
「我々の村のものが迷惑をかけました。貴方は……」
「聖域の巡礼をしております。ダニエルと申します」
子供を警戒させないように物腰を低く笑みをうかべる。そんな俺を兄貴がちょっと薄気味悪いような顔で見ているのに、腹が立つ。
「貴方はもしや……」
疑問を口にする事を躊躇っていると、少年が口元に淡い笑みを浮かべる。
「ええ、バルサの指導者。デルト・バルサです」
そう言って少年は屈託のない笑みを浮かべる。一回り小さな手が差し出される。俺はその名前に息を飲む。
バルサ村。それは、鉱山で剣を交わした過激派の村だ。目の前の少年がその村の指導者とはどうも結びつかない。この少年があの戦いを指揮していたなんて信じられない。
そんな思いで、小さな手を握りしめると、と少年とは思えない強い力でぎゅっと握り返された。
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