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背中合わせに別の道
大量の資料を俺は運び込んでいた。手には大きな箱を抱え、薄暗い洞窟に身を屈めて入る。雫を垂らした、蔦の葉が俺の頬を擦る。
「おい、さっき顔を真っ青にして倒れた奴が何してんだ」
地面とベッドインしていた兄貴は、今は腹と足に包帯を巻きながらも、資料に率先して埋まっている。
「俺が見ないと、ダニーは見ないだろう。なんだ。まだ、あるのか?」
兄貴は、森の奥に隠された洞窟の中でマグバイトレの資料を精査している。少しうんざりとした口調で言われる。
「これで最後だ。さすがに山越えの行軍に私物を持ち込むのはな」
窮屈そうに身を屈めながら、マグバイトレが俺の後に続いて入ってくる。その手には同じような木箱が持たれている。
「こんだけ持ち込んでおいてよく言うぜ」
俺は手が痺れる程の重量に呆れながら言う。洞窟の端に積み上げた、木箱を見て思う。よく兄貴に内密にここまで運び込んだもんだ。
「それにしても湿っぽい場所だな。もっと良い場所は無かったのか?」
マグバイトレが顔を顰め、湿気の含んだ洞窟の壁に手を当てる。
「傷にも悪いんじゃないか?」
「はっ、自分の部下に首輪も負けない奴に言われたく無い」
マグバイトレの言葉に兄貴が鼻で笑う。
「人が心配してやっているのに」
「余計な世話だ」
二人がガウガウと吠え合う犬ように言い争う。
「おいおい、喧嘩するのやめろ。その争いはぜってえ不毛だから」
マグバイトレがちょっと申し訳なさそうにしているのが、可哀想だ。俺は二人の間に肩をねじ込むようにして、新しい書類をテーブルの上に置く。兄貴は軽く眉をひそめ、新しい資料に手を伸ばす。黙々と書類を読む姿は昔の本の虫を呼び起こされる。
「何か質問があれば受けつけるが?」
マグバイトレが兄貴の隣に座る。肩に乗せられた腕を鬱陶しそうにしながらも、兄貴はその腕を払わなかった。ただ眉をしかめただけだ。
「この原典の解釈だ。元は同じ宗教と仮定するなら、どうやって証明する」
「それは、原典のここを引用する。聖域には古代の遺跡がある。遺跡にこの紋章があれば……」
マグバイトレが資料を指差しながら、兄貴に説明している。二人ともどちらかといえば研究者気質だから、こういう時は気が合うようだ。先程の険悪な雰囲気は霧散し、資料を見ながら、ああだ、こうだと言い合っている。
「仲が良い事で……」
俺はすっかり置いてきぼりだ。特にトラブルが起こる様子も無さそうだから、俺は資料を整理する係に尽力する。積み上げられた資料は年季が篭っており、持ち上げると埃が落ちる。マグバイトレの研究した時間を感じさせる。
「……」
俺は黙って資料の表紙をなぞる。この研究だけが、これからの俺たちの旅の頼りだ。
頭の中でどう動けばいいのか考える。ガリエルノ人である俺は比較的、この国では動きやすい。元指導者というのもその助けになる。問題はこの大量の資料と、あとは兄貴をどう連れて歩くかだ。
奥地に行けば行くほど、難しい。何か手を打たなければいけない。
考え込む俺を尻目に、背後で二人が言い争いを始めている。
「だから、ここのルートを採用する方がいい。途中にガリエルノ人の村がない。見つからないように動く方がいい」
「効率が悪い。人のいない場所は、道がない。そんな場所をわざわざ選んでいたら、いつになったら聖域にたどり着けるかわからない。だから、村をいくつか経由しながら行くこの道の方が現実的だ」
「危険だろうが。自分の顔見たことあるか?どうみても新聖国人の癖に。顔を見ただけで石を投げられる」
「隠せばいい」
「隠せる訳ないだろう? 食事は風呂は?仮面でも被っていくつもりか」
「……顔を焼けばいいだろう。包帯で巻いてやれば顔が見えない」
「正気か?感染症で死ぬ確率の方が高いぞ」
マグバイトレが呆れたように言う。
「おい、ダニエル。お前もここに来て、このアホを説得しろ。こいつ、無茶なルートを採用しようとしている」
呼ばれた俺は本を閉じると、兄貴たちの元に行く。ランプにぼんやり照らされた地図を覗き込む。
「俺なら、この村と村を通って、こうだな」
そう言って、指先でガリエルノの村をなぞり、経由させていく。マグバイトレがコイツもかという顔をした。
「自分の兄貴を殺す気か?バルバットロウより酷えじゃねえか」
俺はニッと口元をあげる。
「まあまあ、これが効率的なルートって言う兄貴の言葉を採用って事で」
「呆れる」
マグバイトレが頭が痛いとばかりに、額を抑える。
「勿論、ちゃんと殺されないようにするさ。今、ガリエルノ国内にいる神聖国人には二種類ある」
俺は左手を後ろ手に隠し、もう片方の手で指を立てる。
「一つは敵。アンタらみたいな侵入者だ。このご時勢だと見つかったら、即殺される。そして、もう一つが奴隷。神聖国にあるものは勿論、俺たちの国にも存在する。攻め込んできた捕虜だったり、借金か何かで流れてきたり、理由は様々だ。森の民には敵が多くてな。熊や野生の大狗が出るから、大概護衛という名の肉壁に使われている」
俺は兄貴にそろそろと近ずく。俺の影が兄貴の顔に降りる頃、不思議そうな顔をした兄貴が顔をあげる。俺はニヤリと口元をあげる。
「……俺が守ってやるよ、お兄ちゃん」
そう言って、隠し持っていた奴隷の首輪を素早く兄貴の首につけてやる。兄貴の澄ました面が、ヒクリと引き攣る。
兄貴の首に無骨な首輪が嵌る。黒髪で精悍な顔つきの男にはまっている様子は意外にも唆られるものがある。俺は満足げに頷く。これなら、無事に村を通過出来るだろう。
「ダニー、お前」
「何だ、兄貴?」
「……根に持っているだろう、絶対」
「何のことだ。俺は兄貴を守るためにしているだけだ。それに通りたいんだろ?ガリエルノの村。じゃあ、仕方ないよなあ」
俺はすっとぼけて、首を傾げる。
首元についた重い首輪に指をかけながら、兄貴が諦めたように深いため息をついた。ここに奴隷の奴隷にされる将軍が誕生した。
「ぶっ、あははっはは」
マグバイトレが腹を抱えて笑いだす。叱られた犬みたいなった兄貴が愉快で仕方ないのだろう。
「いや、いい考えだと思うよ。さすが、俺の天使様。その調子で、このアホが暴走しないように見てやってくれ」
「まあ、俺にかかれば兄貴なんて、子犬ちゃんだ」
「くっ、くくく。ざまあねえな、バルバットロウ。似合ってるぜ」
兄貴はそんなマグバイトレを睨みつけながら、少しだけ下唇を噛みながら、首輪についた鎖をつなく輪を揺らしている。
「さてと、ルートも決まったし、研究資料の方の解説も大体終わった。俺のやれる事はもうない。戻るとするか」
そう言って、マグバイトレが立ち上げる。
「陣を引くのか?」
兄貴が不満そうな顔を隠さないまま、マグバイトレに尋ねる。
「ああ、明日にでも。ダニエルの村に捕まっている仲間を引き取りに行かなきゃならねえ。そん時にちょっと食料を貰えたとしても、先は長いからな。ここを離れるのは早ければ、早いほどいい」
「兵は不振がらないか?」
兄貴の質問に、マグバイトレが首を振る。
「問題ない。村と連絡をつけて、まだ俺たちの占領下にあるかのように振舞って貰う。アンタはガリエルノ人の奴隷に殺された事になっているが……まあ、兵士は暴走しないように俺が責任を持って管理するさ。間違いなく、ダニエルの大事な預かりものにはキズ一つつけないよ」
そう言って、マグバイトレが兄貴に視線を向ける。
「じゃあな、バルバットロウ。せいぜい死なないようにしろ」
兄貴は複雑そうな顔でマグバイトレを見て、それから資料の山に目を落とす。仕方ないな、というようにため息をつく。
「……お前の方こそな」
マグバイトレは少し名残惜しそうに兄貴を見て、それから俺に向き直る。
「最後のお見送りをお願いしても?天使様」
「一生、ほざいてろ」
べっと舌を出してやる。だが、俺は立ち上がり、洞窟を後にするマグバイトレの後ろに着いて行ってやる。
外の空気は刺すように冷たくて、どこか心地よい。
きっとこれが最後だから。まあ、いいだろう。
日はすっかり消え、あの時のような満月が空の上に浮かんでいる。
ーー月が綺麗だ。
つい見とれてしまう。軽い足取りで歩くマグバイトレの後ろをぼうっとしながら歩いていると、急に立ち止まったマグバイトレの背中にぶつかる。
「おい」
ちょっとつんのめってしまい、マグバイトレを非難の目で見る。振り向いたマグバイトレの太い腕が俺の背中に周り、抱きしめられる。
顔の前にマグバイトレの厚い胸板が広がる。少し躊躇いながら、頬を寄せるとじんわりとマグバイトレの体温が伝わってくる。
「あー、いい匂いがする。何でだ。中身はこんなクソ餓鬼なのに」
「悪かったな。性格までは変われなくてな。離せ」
「いや、それもいい」
マグバイトレが俺の髪に顔を埋める。時に水浴びもしていないから、辞めて欲しい。俺はポンポンと背中を叩く。
「ああ、離したくねえなあ」
そう言って、顔を軽く擦り付けられる。ぎゅっと強く抱きしめられて、背中が反りそうになる。
「……俺じゃ駄目か」
少しだけ、真剣味を帯びた語調で言われる。
「バルバットロウに軍を任し、俺が一緒に聖域に行く。元々、あの研究は俺がしていたんだから。それでもいいだろう?」
まあ、確かに証明するのマグバイトレでも問題ないのだが。
「駄目だ。誰が国で和平交渉をするんだよ。兄貴は無理だ。俺の監視がないと、すぐに元に戻るぞ。あいつ、変なところが頑固だから」
それにガリエルノ人に強硬な姿勢を取っていた人間が反乱にあったという事実が、和平には必要なのだ。神聖国には次は自分たちの番かも知れないと思って貰わないと困る。
「そうか……残念だ。クソっ、バルバットロウの奴め。俺の方が先にダニエルを見つけたのに」
マグバイトレが俺から手を離す。肩に手を置き、見つめ合う。
「もしお前があいつを殺せていれば、お前は俺と一緒にきてくれたか?」
「まあな。でも立場が違うからな、アンタを騙して、村人を守っていたかもしれない」
仮定の話だ。俺は結局、その場で考えた最良の道を選ぶしかない。
「どうせなら、騙されていたかった」
そんな風に本気の声でいうマグバイトレに笑ってしまう。
「馬鹿だな」
「当然だろう。男は馬鹿なもんだ。特に美人相手にはな」
「俺はそんなにアンタの好きな面をしていたか?」
俺は挑発的に口元をあげてみせる。
「ああ、とても。俺の初恋の」
マグバイトレが切なげに微笑む。
「俺の大好きで求めて仕方がない俺の天使。ガリエルノ人を始めて見た時は驚いたぜ。まるで、教会の壁画から抜け出してきたかと思った」
その姿はいつもの余裕のある大人の男の言った風情とは違い、弱々しい。マグバイトレは自分の匂いを俺の肌に刷り込んでいく。強い刺激臭のある匂いだ。どこかツンとした匂いが広がる。俺は何度もこの匂いを嗅いだ気がする。ベッドで、戦いながら、こうして抱き合いながら。俺はまあ、この匂いが嫌いではなかった。
「愛していたよ、ダニエル」
マグバイトレが俺の手を取り口付けする。手の甲に熱い感触がじんわりと残るのが分かる。
「一目惚れだった」
そう言って、マグバイトレが照れたように笑う。少年のような愛らしい笑顔で。どうしてだが、馬鹿らしいと笑い飛ばす元気が俺にはなかった。
「こんな立場じゃなければ、プロポーズしていたのにな」
「へえ、敵国の人間で、裏切り者で、男の俺に? ソドムの人間かよ」
「それも悪くないと思う位には」
そう言って、マグバイトレが俺に背を向ける。だから、俺もそっと後ろを向いた。
月明かりの下、俺たちは背中合わせになる。
ーーここからは別の道だ。
「バルバットロウを頼む。これでも俺はアイツと友人のつもりだったんだ」
「弟を頼む。何をしでかすか分からないやつだが、ウィルと共に監視していてくれ」
「俺はこの戦争を終わらせてみせる。なあ、そうしたら」
マグバイトレが言葉に詰まる。
「そうしたら、グロウスと共にまた逢いに来てくれるか?」
甘い希望に縋る自分を恥じるように、少しだけ笑いを含ませて、マグバイトレが言う。
「ああ」
俺は小さく頷く。マグバイトレが始めて兄貴の名前を呼んだ。
「そうか、なら俺はその言葉を胸に戦い抜こう」
そう言って、マグバイトレが騎士のように胸に拳をあげ、月を見上げる。
「どうか無事で、ダニエル。また、会える時を楽しみにしている」
振り返りもせずに、マグバイトレは自らの戦場に向かう為に、ただ真っ直ぐに去って行った。俺も自分の道に向かい、一歩足を踏み出す。
さよならは互いに言わない。
ーーきっと、また会うのだと。
そんな陳腐な約束は恥ずかしすぎて、言葉に出来ないから。
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