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生まれて初めて、いや嘘だった。生まれて4回目くらいに神さまに祈った日。
太陽が丘の向こうで燃えている。パチパチと炎で焙られた木がはぜる音がすぐ耳元でする。心臓のすぐ下で、暖かな兄の背中の体温が伝わってくる。このまま目を閉じてしまいたくなる。
「おい、グロウス。俺を……置いていけよ」
身体から血が流れ過ぎて、くらくらする。一回、腹には剣が生えたもんだから、腹筋に力も入らず、そのままずるずると地面に沈み込みそうになる。俺が地面とキスせずにすんでいるのは、ひとえに俺の腕を抱きかかえて立たそうとする健気な双子の兄貴がいるからだ。
「そんな事出来る訳ないだろう。大丈夫、絶対助ける」
兄貴は強い口調で言い切る。
「はは、何言ってんだ。ガキのお漏らしみたいに血が出てるんだぜ? こんなの助かりっこない」
「血が流れるなら塞げばいい。治癒士の元へたどり着けば、きっと」
「うちの村にいる治癒士はしわしわのババアじゃねえか。命の恩人にするんなら、美人の女の子がいい」
「こんな時にふざけるな」
兄貴の怒ったような声が身体に響く。こんな時だから、ふざけないとやってられないだろう。
「おい!」
足がなんでもない小石に躓き、そのまま倒れ込みそうになる。今にも地面にダイブしそうな俺の身体を兄貴が引きずりあげる。
「悪い」
手間かけた。早く先に進まないといけないのに。けど、力が入らないんだ。無理やり唇の端を上げようとするが、震えて上手くいかない。
「……なあ、兄貴。死ぬ人間を助けられるのは、治癒士のマリア様じゃなくて、くそったれの運命の神様だと思わないか?」
「……神はきっとお前を助けるさ。そのために毎週のように礼拝に通ったんだ」
「くそ真面目に礼拝に通っていたのは兄貴だけじゃねえか。残念……神様とやらをちゃんと拝んどけばよかった」
ああ、神様。助けて下さいって。そうすれば、みっともなく神様に縋れたのに。
「馬鹿はお前だ、ダニー。こんな時にそんな冗談はやめろ」
グロウスは俺を見ない。俺の腕をかかえ直し、ずるずると地面に俺を引きずっていく。きっと向かっているのは聖堂だろう。そこに女子供が避難している。治癒士のばあさんもそこにいる。けど、きっとそこまで一緒に行くことは出来ないだろう。遠くから、馬が地面を駆ける音が響いてくる。
「……ゴホ」
ガリエルノの蛮国くそったれとか、帝国の騎士が来ねえとか、罵ってやりたいのに腹に力が入らない。それどころか、出血とともに力が抜けていく。
「もう少しだ、ダニー。もう少ししたら。そしたら、きっとお前は助かる」
兄貴は俺を見ない、きっと未来を見るのが怖いからだ。だって、どう見たって俺は死ぬ。兄貴は額からだらだら油汗をかきながら、見えない希望を見ようと必死に目の前を睨みつけていた。
「きっと助かる。助けてみせる」
いつも自信にあふれ、正しいことしか言わない真面目な兄が、自分に言い聞かせるようにそんな戯言を何度も何度も繰り返す。俺と揃いの黒髪は血で汚れて固まり、瞳には涙の粒がせりあがっている。まるで兄貴と二人で眺めた街にある露天の黒真珠みたいに光っている。ああ、あれは綺麗だった。だが、今、兄貴の目に映っているのは炎に焼け落ちる自分たちの生まれ育った村だ。
「……」
少しでも兄貴をこれから襲うだろう、つらい現実から逸らしてやりたくて口を開こうとする。けれど、喉を炎で焼かれたためか、ただ間抜けな呼吸音だけがすり抜ける。
「大丈夫、大丈夫だ。もう少しだから」
そう言って、兄貴はずるずるともう力の入らない俺の身体を引きずっていく。馬鹿な、兄貴。まだ、村の中には敵がいるのだ。俺を置いて、さっさと逃げればいいのに。足先がずるずると地面の先をえぐり、足先が地面とタップダンスする。痛い筈なのに、その感覚すら遠くに感じる。
「死ぬな、ダニー。絶対だ。死ぬな……お前、俺に死なないっていったじゃないか」
まるで何かに縋りつくように兄貴が言う。ああ、瞳から涙がこぼれ落ちそうだ。真面目で誠実で、悪いことなんて何にもしない。俺と同じ顔の癖して、自分が正しいって面をした嫌味な兄貴だった。意地っ張りな兄貴は滅多に泣かなかった。そんな兄貴が今にも泣いてしまいそうだ。
「死ぬな、死ぬな、ダニー。生きろ」
「……」
無茶言うな。そんなの子供の戯言だ。俺はもう答えられない。それでも、歯を食いしばりながら俺に声をかけ続ける兄貴の声を聞いていると辛くなってしまう。可哀そうな兄貴。こんな場所にひとり取り残されるのだから。
霞みがかったような視界の向こうには、相変わらずの現実が広がっている。豊かな穂をたたえ、収穫まであと少しになっていた麦畑が焼け、その炎の向こうで村人の家が、未来のために大事に蓄えた財産が、灰になっていく。心地よい女子供たちの歌が聞こえていた丘からは、村人たちの悲鳴と、殺された人間の遺体が転がっている。さわやかな森の香りがしていた村の遊び場では兵士たちが、倒れた村人にとどめをさして回り、血と焼いた死体の匂いが漂っている。人の焼ける香ばしい匂い。吐きたくなる。ここは地獄だ。馬の嗎音と人間の怒号が聞こえてくる。俺の地獄門をひらいてくれる死神は、どんどん近づいてくる。
「くそっ」
兄貴がそう悪態をつくと、俺を担ぎ直し、急いで走り出そうとする。その動きに付いていけず、俺の足は縺れ、小石にひっかかり、そのままずるりと地面に身体が落ちる。
「ダニー! くそっ、しっかりしろ」
兄貴に無理やり引きずられてきたが、もう無理だ。その肩に掴まる力さえ入らない。
「おい、生き残りがいるぞ! 剣を持っている!」
敵の兵士の声が聞こえる。兄貴は屈みこみ必死に俺を肩に担ごうとするが、双子の俺たちは体格も似ている。担ぎあげては俺の身体は無様に地面の泥の中に逆戻りする。
「頼む、しっかりしてくれ。掴まれ、掴まってくれ、ダニー。一緒に逃げよう」
兄貴が俺の顔を覗き込みながら、必死に声をかけてくる。俺にそっくりの将来男前になること間違いなしの顔が涙と血で汚れて、歪んでいる。
「……」
行け、俺を置いて、逃げろ。そう言いたいのだが、声が出ない。みっともなく、乾いた唇が微かに動くだけだ。兄貴は必死の形相で俺を森の茂みの陰まで引きずっていく。ぬかるんだ泥には、事後のベッドのシーツみたいにみっともなく身体を引きずった跡が残っている。全然姿を隠すことが出来ない。これなら、このまま森の斜面を転がっていった方がずっとましだ。これでは、駄目だ。きっと兄貴も分かっている。
「ダニー。頼む、ダニー」
俺に似た顔でそんなみっともない顔をするんじゃねえ。だから、俺は最後の力を振り絞り、兄貴の頬を叩く。ペチン、と酷く情けない音を立て当たった手のひらが、兄貴を正気に戻すことを願う。指先についた血が、兄貴の顔をさらに汚す。
「ダニー?」
まさか顔をはたかれると思わなかったらしい。酷く驚いた顔で兄貴は俺を見下ろしていた。
「……」
なんとか唇を動かし、俺は歌を紡ぐ。
「何だ? どうした? 何を言っている」
兄貴が耳を俺の口元に近づけてくる。敵が迫っているのにのんきな兄貴だ。けど、よかった。俺の喉から漏れるかすれた吐息を吹き込んでやる。大丈夫、兄貴ならわかる。だって、これは昔からこの村に伝わる童歌だから。
――ハイアンドシーク。見つけた。急げ、逃げろ。じゃないと、大変。どうなるって?
兄貴と俺の遊ぶ時に歌う、合図の歌だ。兄貴がハッとした表情をして、顔を上げた。
「いたぞ! 殺せ!」
剣が鞘から抜かれる音がして、馬を降りた、複数の兵士の足音がこちらに向かってやってくる。もう時間がない。俺は最後の力を振り絞って、兄貴の背中を手のひらで押す。軽い力だったが、兄貴の身体はバランスを崩し、そのまま森の斜面に向かって身体の体勢が崩れる。
「ダニー! 待て!俺も一緒に!」
兄貴の悲鳴のような叫び声が聞こえ、そのまま森の斜面を転がり落ち、その姿が消える。俺はほっとして、そのまま地面の泥水に身体を浸すようにしてうつぶせに倒れる。兄貴の足跡が見つからないように、芋虫のように地面を這い、地面を汚す。あー、一仕事終えた後だからか、地面の冷たさに心地よさすら感じる。
「おいっ、いたぞ!」
「一人か!」
「武器を持っているか?」
俺の周りで足を止めた兵士たちが、俺を取り囲みながら、騒ぎ立てる。泥水に顔を突っ込んでいるため正確な人数は分からないが、ざっと3、4名といったところだろう。奴らが歩くたびに俺に泥水が降りかかる。最悪だ。
「ひどい怪我だな」
「生きているのか?」
地面に襤褸雑巾よりも酷い恰好で倒れている俺を見て、兵士が剣の先で俺の背中を突っつく。
「……」
乱暴に肩を掴まれ、ひっくり返される。
「……まだ子供じゃないか」
俺の顔を見た、部隊の長らしき人間がそう言って苦々しい声を出す。剣を持った男たちが、俺のすっかり汚れきった姿を覗き込む。どうせならもっと男前の時に見てもらいたかったぜ。
「この国の民は長引く戦争で、男が少ないですからね。だから、子供も武器を持って戦います。この子もきっとその類でしょう」
「俺達の国ではまだ教育機関で学んでいる年ごろだろうに」
「神聖国はなんて残酷なことを。こんな子供を戦わせるなんて」
人間らしい奴らの感情に笑いたくなる。なら、どうして村を焼いた。どうして、俺の仲間を殺した。哀れみの言葉は俺に掛けられているように見せかけて、自分の道徳心に慰めの言葉を投げかけているだけだ。どう誤魔化しても人殺しは、人殺しなのに。
「哀れだ。だが……」
聞こえる声は、近所の真面目な兄ちゃんみたいな若い男の声だ。
「武器を持って我々に歯向かってきた以上は、敵だ。……もうその傷では助からん。殺してやれ」
俺の人生で一番、簡単な死刑宣告。むしろ慈悲すら感じさせる台詞だ。俺をこうしたのがこいつらでなければの話だけど。
「はい」
死刑執行人はそう言って、俺の肩を掴み無理やりあおむけにすると、心臓の上に剣を置く。最高な事に、もう痛すぎて何も感じない。ただ、曇天の空が俺の上に広がっているだけだ。
「我が神よ。どうかこの哀れな子供に、慈悲と救済を。その罪を許したまえ」
他国の知らない神に許しを祈られても嬉しくない。どうせなら、俺は自分の両親に許しを請いたかった。頑固者でクソ強いがあっさり敵兵に囲まれて殺された親父と、美人だったから兵たちの目を引き付け囮になって俺達を逃がしてくれた母親に。生き残れなくってごめんなさいって。どうか、天国では一緒にいさせてね、って。
俺は震える唇を上げて無理やり笑みを作る。
「 」
そして音の出ない歌を歌う。
「こいつ、何を言って?」
――ハイアンドシーク。ハイアンドシーク。見つけた。急げ、逃げろ。じゃないと、大変。どうなるって?
敵の剣先がカツンと金属に当たる音がした。ああ、残念見つかった。俺を(不要な改行)
見下ろす敵兵の顔が一瞬で引きつった。
「逃げて下さい! 隊長! 自爆です!」
その声に回りの兵士が息をのんで、逃げようとする。そうだ、逃げろ。この遊びは、敵を見つけ出したら、一目散に声を上げて逃げる遊びだ。だって、隠れていた鬼の手には人に当たると弾ける木の実が握られているんだから。
――爆発して、ドカンだ!
胸に抱いた爆弾のピンを外す。俺の周りにいた兵士たちが一斉に背中を向けて、森の奥に逃げ込もうと走り出す。だけど、もう遅い。だって、この遊びはもっと早く逃げないと助からないのだから。兵士の一人がもう間に合わないと判断した為か、必死の形相で俺に覆いかぶさってくる。爆風から少しでも仲間を守ろうとしたのだろう。大人の男の体が俺の体を覆い被さり、重みで息が詰まる。
「ぐっ」
その男からは、埃臭い土の匂いと僅かに血の臭いがした。最後がむさ苦しい男と一緒なんて最悪だぜ。心の中の悪態と共に、森の中に轟音が響く。鼓膜が破れたのか、バチンとなにかが破れた音がしたと思ったら、もう何も聞こえなくなった。ぼやけた視界の向こうで、自分の千切れた腕が転がっていた。全身がバラバラだ。森に爆発で火が燃え移ったのか、茂みの奥まで真っ赤だ。火が俺の顔を焙る。襤褸布みたいな服も、美人な母親と揃いの黒髪もちりちりと灰になっていく。
痛い、痛い。死にたい。
どうせ死ぬなら、どこぞの誰とも知らない野郎を巻き込んで心中するビッチみたいな死に方よりも、いちおう自分の片割れだった兄貴の背中の上で、名前を呼ばれながら、死にたかった。神様はつらい道を選べと俺たちに言う。だったら、あえてろくでもない道を選び取った俺を褒めてくれてもいいと思う。
――ああ、神様。俺が一ミリたりとも信じていなかった、神様よ。もしも、可哀そうな俺を哀れんでくれるな
ら、願いがある。
――どうか、今日が兄貴にとって人生最悪の日になりますように。
両親が死んで、仲良くはなかったが、双子の片割れだった俺も死んで、生まれ故郷は焼き払われる。そんな地獄みたいな今日が人生のどん底であってくれ。どん底の今日を苦しんで、そして明日に向かって生きてくれ。今日が最悪なら、明日はきっと今日よりは少しマシな筈だと思わせてくれ……どうか、神様。この栄光たる神聖国の。俺の神様よ。
そんな柄にもない事を祈って俺は死んだ。爆弾で自爆したから、全身バラバラ。たぶん、一緒に心中した敵兵もバラバラだから、誰が誰の死体か分からない、パズルみたいな遺体になっていたと思う。なんだったら、間違えて敵の国の兵の家族の墓に入っているかもしれない。まあ、そんな劇的でドラマチックな死に方をした俺だから、来世はきっといい事あるはずだ。自殺の巻き添えで人を殺したけれど、大事な兄貴はちゃんと守った。けど、神様はくそったれだった。もう一回言う。くそったれだった。
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