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あの人は、変わってしまった。
「はあ、困ったなあ。君が、こんなに物分かりの悪い人だとは思わなかったよ」
小暮隆之は、呆れた顔つきでわざとらしいため息を吐く。椅子に座り、大袈裟に頭を振った。芝居がかった仕草である。
「あのさあ、僕は前にも言ったよね……外出したら、一時間以内に帰って来てくれって。同じこと、何度も言わせないでくれるかな」
立ったまま下を向き床を見つめている妻を見つめ、隆之は冷たい声で言い放つ。
昔は、こんな声を出す人ではなかった。頼りないところはあるが、優しい男だったのに。
二人が向き合っているリビングは、重苦しい空気が充満している。いや、ガスが充満しているかのようだ。いつ引火し爆発するかわからない。
晴美は空気を変えるため、裡にうごめく感情を殺して、すまなそうな表情で頭を下げた。
「ご、ごめんなさい。でも──」
「でもって何? 僕の言ったこと否定するの? 僕は今、何か間違ったこと言ってたかな? それにさ、条件に関しては、結婚前に君も承知していたはずだよね」
ねちねち言いながら、隆之は壁にかけてある時計を指さす。
「君が買い物に出たのは、三時だった。ところが、帰って来たのは四時五分。これは、どういうことかなあ」
厭味たらしい口調だ。この男には、自分の言葉が他人をどれだけ不快にさせるかわからないらしい。
晴美は、湧き上がる気持ちを必死で押さえ付けた。だが、言葉は漏れ出てしまう。
「たった五分だよ。そんなに言うことないじゃない……」
「はい? たった五分? たった五分、かい? たった五分って言ったのかい? いやあ、驚いたね」
芝居がかった表情で、隆之は同じ言葉を繰り返す。ついに始まってしまった。この男の厭味な説教のフルコースだ。
「君は、何もわかってないんだな。五分あれば、何が起きると思う?」
言いながら、晴美をねめつける。彼女は、思わず目を逸らした。今の夫の瞳からは、不快なものしか感じない。こんな陰のある嫌な目つきは、今まで見たことがない。
「ねえ、何が起きると思う? ねえ、言ってみてよ?」
なおも、ねちねちと聞いてくる。昔は、こんな性格ではなかったのに。
黙り込んでいる晴美に業を煮やしたのか、隆之は答えを自らの口で述べた。
「あのね、五分あれば人ひとりが簡単に命を落とすんだよ。もし、あの時……僕が五分遅れていたら、君の命はなかったんだよ。わかってんの? たった五分なんて、君に言う資格はないと思うけどね」
この男と言い合っても無駄だ。晴美は、湧き上がる感情をどうにか押し殺し、もう一度頭を下げた。
「本当に、ごめんなさい。これからは、ちゃんと時間を守る。もう二度と、遅れたりしないから」
「口で言うだけなら、誰にでも出来るよ。謝って済むなら、警察はいらない」
冷酷な言葉で切り捨てた。晴美の中に、再びドス黒い気持ちが湧き上がってくる。思わず、拳を握りしめていた。昔なら、確実に手が出ていただろう。
若い頃は、男を相手に殴り合ったこともあった。だが、今はそれが出来ない。晴美は、心の中で数をかぞえた。ネットで見た、怒りをコントロールするための方法である。絶対に、怒ってはいけない。
そんな彼女に、隆之のさらなる言葉の刃が突き刺さる。
「だいたいさ、君に外出の必要はないんじゃないのかな。今の時代、ネットがあれば何でも出来る。買い物は通販で事足りる。友達と話したいなら、テレビ電話だってある。君が外に行かねばならない理由など、どこにもないんだよ。一時間の外出ですら、かなり譲歩しているつもりだけどね」
その時、晴美の顔が歪む。思わず、心の声が洩れていた。
「もう、息がつまりそうだよ……」
呟くような一言だったが、隆之は聞き逃さなかった。
「息がつまる? 今、そう言ったのかい?」
言いながら、顔を近づけて来る。晴美は目を逸らし、下を向いた。
「息がつまるとは、面白いことを言うなあ。けどさ、ここは陸だよ。海の中じゃないんだ。どうやって、息がつまるんだい? それとも、君にはそういった持病があるのかい?」
小馬鹿にしたような表情だ。さすがに、晴美の我慢も限界を迎えた。体が、ブルブル震え出す。恐怖ではなく、怒りのためだ。
「いい加減にしてくれないかな……人の揚げ足ばっかり取って。あたしが、どんだけ我慢してるかわかってんの……」
低い声だったが、その奥には怒気がこもっている。隆之を見る目も、先ほどまでとは違う感情があった。
だが、隆之は怯まない。
「我慢、か。だったら、僕はどうなるの? この腕は、どうなるのかなあ?」
わざとらしい口調で言いながら、隆之は左手の長袖をまくった。
通常なら、そこには指があって手の平に繋がり、前腕があるはずだった。ところが、彼には肘から先が無い。綺麗さっぱり消えている。隆之は、欠損している部分をゆっくりと撫で回した。
その途端、晴美は目線を逸らす。それは、彼女がもっとも見たくないものだった。
「君のせいで、僕は左腕をなくした。人目が気になるから、外出も出来ない。一方、君はあちこち出歩いている。そりゃあ、客観的に見て君は綺麗な女性だ。顔もスタイルもいい。僕なんかとは、まるで違う。外に出て、その美しさを他のイケメンたちに見せつけたいと思う気持ちも、わからなくもない」
真面目くさった表情で言った後、ウンウンと頷いて見せた。全てにおいて、本当に厭味たらしい。
「そんなこと、思ってないから……」
蚊の鳴くような声で、晴美は言葉を返した。半ば反射的なものだったが、もちろん隆之は聞き逃さない。
「ふうん、思ってないんだ。本当かなあ……まあ、いいや。これ以上、君と話してても疲れるだけだしね。それ以前に、僕の話を聞く気もないんでしょ。だったら、これ以上は時間の無駄だね」
そこで言葉を止め、ふうと大袈裟なため息を吐く。
「とにかくさ、次は気をつけてよ。また遅れたら、しばらく外出禁止だからね」
やっと、説教タイムが終わった。
いつもこうだ。時代は令和になっているというのに、あの男は昭和のごとき男尊女卑の価値観を振りかざしている。お前は黙って、俺の言うことに従っていればいいんだよ……とでも言いたげな態度で接して来るのだ。
昔は、あんな性格ではなかった。むしろ、晴美の後を隆之が付いていく……そんな関係だったのだ。同じ年齢であるにもかかわらず、姉と弟のようだった。なのに、今では支配者のような態度である。
仕事柄、隆之は出社の必要がない。いつも家にいる。引きこもる若者のごとき生活を送っているのだ。
そのこと自体は構わない。だが、晴美にまで同じ生活を強いてくるのだ。まるでカゴの中の鳥のように、家に閉じ込められている。
本来なら、こんな男とはさっさと別れるべきなのだろう。しかし晴美には、そうも出来ない事情があった。
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