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我に返った。目の前の机に仁科くんはいない。ああ、またやってしまった。仁科くんはプリント一枚にほかの子たちの倍くらい時間がかかる。わたしには一定時間何もしない時間があるとしぜんにスリープ状態に切り替わってしまう癖があるのだが、ほかの子たちを家庭教師しているときにはなったことがなくても、倍くらい時間のかかる仁科くん相手ではそうはいかない。また隠れんぼだろうか。
あらゆる場所を探して、仁科くん、と声をかける。お手洗い。書斎。キッチン。いつか隠れていた洗濯スペース。ガレージ。階段の下。押入れ。クローゼットの中。どこにもいない。さすがにパスを持っているオーナーしか入れない研究室の可能性はないと判断して、わたしは庭に出た。
はたして、仁科くんはいた。しゃぼん玉を吹いて遊んでいる。弾けないように、ゆっくり、丁寧に息を吹き込みながら、仁科くんは自分の顔と同じくらいの大きさのしゃぼん玉をつくった。
「今日は隠れんぼじゃなかったの」
「だって先生、おれがもういいよって言っても、すぐ探しに来てくれないじゃん」
子どもは難しい。考えていることが読めない。ぷかりと浮かんだ大きなしゃぼん玉を、仁科くんが指でつついた。あんなに慎重に、大事そうにつくった苦労を、もう忘れている。しゃぼん玉は一瞬で弾けて消えた。
「先生は、アンドロイドなんでしょ。高いお金を払ってるのに、どうしてテストの点がよくならないのって、ママが言うんだ」
そうだ。わたしは人工知能搭載型アンドロイド、機体番号No.995。喜久子という通称はオーナー――わたしたちはそう呼び習わされているが、世間では一般的に博士と呼称されている――が名付けてくれた。アンドロイドなので歳をとらないから、オーナーはいまだに「このお姉さんは、今日からきみの先生になるひとだよ」と言って子どもたちに紹介するが、スリープ機能が残存している時点でお察しのとおり、わたしはずいぶんと旧式だ。
それでも、わたしがほかのオーナーの子どもたちより優秀でいられたのは、オーナーが何度も改良を重ねてくれたおかげだ。しかし、ここ数年、オーナーはわたしの改良を請け負ってくれない。とうとうわたしを諦めて、最新型のもっと優秀なアンドロイドをつくるつもりなのだろうか。
「仁科くんは、そう言われて、悔しい?」
感情というものもプログラミングされているため、どういうものかはなんとなくわかる。嬉しい、悲しい、好き、嫌い。それらを巧みに利用して勉強させるのが効率がよく、子どもの勉強に対する疑問や違和感を緩和してくれる。それを学習してから、わたしは子どもに教えるときに感情面からのアプローチも大切にしている。
「べつに。ママもおれのことわかってくれないから、おれもママのことわかんなくていいやって」
子どもは難しい。感情的で、たまに理性的。
仁科くんは、しゃぼん液の入った容器にしゃぼんストローをつけ膜を張ると、今度は強く、勢いよく息を吹いた。小さなしゃぼん玉がたくさんできた。
「先生、きれいだねえ」
こんなに楽しそうな仁科くんを見るのは初めてだった。いつも、机に座って、つまらなそうな顔をしている仁科くんしか知らない。
「先生って、しゃぼん玉吹ける?」
ストローを差し出してくる仁科くんをやんわりと断って、わたしは言った。
「ねえ、仁科くん。仁科くんは、先生が変わって、わたしより若くてきれいで、教え方も上手なお姉さんが先生になったら、嬉しい?」
仁科くんは複雑そうに顔を歪めた。
「おれ、先生がいい」
やだやだ、先生がいい、先生じゃなきゃいやだ。癇癪を起こしかけた仁科くんをわたしは抱きしめた。人肌を感じると、子どもは安心するらしい。しかし、今まで実践したことはない。合金製の固くて冷たい肌では、仁科くんに寒い思いをさせるだろう。「アンドロイドの先生にはできないことね」鼻高々に、初対面の仁科くんのお母さんに言われた言葉だ。
「わたしも、ずうっと仁科くんの先生でいたいな」
仁科くんが鼻を啜った。頭を撫でてやって、ふと思いつく。仁科くんが手に持ったままのストローを指差して言う。
「いい、仁科くん。先生がこのストローをひと吹きすると、六個のしゃぼん玉ができました」
「……おれならひと吹きでもっとたくさんつくってみせるよ」
「いいから、今はそういうことにしなさい」
「わかった」
赤い目のまま、仁科くんは肯いた。仁科くんは九九ができないけれど、わたしの考えを汲みとろうと、肯いてくれる素直さがある。発達障害の子どもは、人の気持ちを理解することが苦手らしいが、少なくとも、仁科くんはわたしを拒絶して殻に閉じこもろうとしなかった。
「一回吹いたら、しゃぼん玉は何個できるかな?」
「六個」
「じゃあ、二回吹いたら?」
仁科くんは両手を使って指を折りつつ、正解にたどり着く。「十二個」
「じゃあ、七回吹いたら?」
「ええー」
唇を尖らせつつも、仁科くんは再び指折り数えはじめる。たどたどしい手つきが心配で、九九を言えたら一瞬なのに……と思うけど、わたしはあえて黙っていた。そもそもこれが掛け算の問題だと気づいているのかも怪しいが、ゆっくりでいいから、自分で考えられる子に育ってほしい。
オーナーは今も、研究室に引きこもってわたしの代替品をつくっているのだろうか。オーナーがわたしを粗大ゴミに出す日が来れば、仁科くんは今日みたいに泣いて悲しんでくれるのかな。仁科くんの成長を見守れない覚悟をしたとき、合金板の筒型の胴体の中心あたりで、歯車がひとつ軋む音がした。
「しゃぼん玉、たくさんだねえ」
乳歯が抜けて欠けた歯を見せて、仁科くんが笑った。
Fin.
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