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「いんいちがいち、いんにがに……」
歌を歌うみたいにリズムに乗って、仁科くんはだれもが知っているフレーズを繰り返す。一の段は当たり前だが問題ない。二の段、三の段も大丈夫。四の段は少しおぼつかないがひととおり間違いなく言えるし、五の段は平気だ。
問題は六の段からなのだ。
「ろくいちがろく、ろくにじゅうに、ろくさんじゅう……」
「じゅう?」言葉尻を上げて、続きを促す。正解への重圧を感じたのか、仁科くんの目線はあっち行きこっち行き、完全に集中力を欠いていた。
「……あーーーー!!」
やはりダメだったか。わたしはプリントをとっちらかし、鉛筆を放り出す仁科くんを宥めた。
仁科くんは小学三年生である。九九は二年生の算数で習うはずだが、一年たっても、仁科くんは完璧に九九を言うことができない。
「ちょっと発達障害ぎみの子でね。ぜひ喜久子さんに家庭教師を頼みたいのだけど」
家庭教師の喜久子さんとは、このあたりに住まう教育ママのあいだで知られた名だ。それがわたしの名だということに異論はないが、執着もない。わたしはわたしの権限で仕事を選べない。オーナーが持ってきた依頼を慎んで受けるだけだ。
接してみるとたしかに仁科くんには発達障害の気があった。ADHD、注意欠陥多動性障害だ。机に向かってじっと座っていられない。すぐに話を逸らす。少しでも気を抜くと、我に返ったとき姿が見えなくなっている。慌てて探せば、洗濯機と壁のあいだの子ども一人がかろうじて入れるスペースに三角座りで身を縮めて、息を潜めている。何をしていたか尋ねると、けろりとして「隠れんぼ」と答える。オーナーはちょうど出かけていたタイミングで、家にはわたししかいないのに、いったいだれと隠れんぼしているつもりなのか。
「オーナー、やはりわたしの手に負えません」
根気よく九九を教えようとしても、仁科くんは聞く耳を持たない。たしかにわたしは教えることでオーナーを食わせているわけだが、こんなに苦戦するのは初めてだった。一ヶ月前と比べて成績向上が見られない現状では、仁科くんの親御さんからお金をもらうことはできない。
そう正直に伝えたところ、オーナーは少し考えるそぶりを見せた。
「喜久子さんの言うことは一理ある。きみは私の愛弟子の中でも飛び抜けて優秀だから、きみで務まらないなら改良が必要ということだ」
しかし、オーナーが彼の仕事場でもある研究室にわたしを引き入れることはなかった。ぶつぶつ何かを呟きながらひとり、閉じこもってしまう。これから仁科くんが来るというのに。
わたしはしかたなくいつもの部屋に仁科くんを通すよう支度をして、彼を待った。
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