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怒り
「ここであっているのか」
地元にある廃ビルの前で、そう俺は呟く。
悪魔もとい佐藤の囁きから一夜。俺は地元に帰り、指定された住所に向かった。幸いな事に、家から指定された住所までは徒歩で五分程の距離だった。
「すいませーん、ヘラン商事の者ですが」
インターホンを押すのと同時に、俺はこの変わった社名を口にする。
どうやらこのヘレン商事というヘンテコな社名は合言葉なようで、佐藤も違法な取引をする時よく使っているらしい。
「裏口から入れ。鍵は空いてる」
今まで乗り越えてきた修羅場を圧迫したような、分厚く低い声が、インターホンの上から聞こえてくる。
明らかにカタギでは無い雰囲気に、俺はガクリと肩を落としながらも、今生きている事に感謝し、指定された裏口に足を進めて行く。
「兄ちゃん、いらっしゃい。佐藤さんの紹介
だろ?」
錆び付いた扉を開けると、小太りで、スキンヘッドの男性が中から出てきた。声のトーンからして関西出身だろうか。
「お邪魔します」
そう言い、俺は深々と頭を下げる。二日前の俺なら、この時点で失禁してたものだろう。
「ここだ。中に組長が居るから、失礼のないように」
階段を上がった先。入り口の錆びついたドアとは一転して、豪華な装飾が施されたドアの前で男は止まった。
自身の口から漏れ出た『組長』と言う言葉を訂正しないところを見るあたり、十中八九中、彼らは筋者なのだろう。
「失礼します」
あまり扉の装飾を汚さないように、一回ハンカチで手を拭きながら、扉に手を掛ける。
部屋の中央には大柄で薄毛な五十台半ばの男が座っていた。
男がこちらをじろりと見ると、持っていた葉巻を一蒸し、こちらに話かけて来た。
「よう田中さん! 俺は大沢、佐藤の奴から話は聞いてるぜ!」
そう言うと大沢はまだ葉巻の匂いがする右手で、そっと向かいの席を指差す。
そこに座れという事か。俺は素直に指示に従う事にした。
「で、田中さん。あんた佐藤に殺されそうだったんだろ?」
何か怖いもの見たさなのか、大沢はヘラヘラと笑いながら、俺に質問をぶつけて来る。
「はい、殺されそうになる直前に命乞いしたらここに行けと言われ、見逃されました」
努めて冷静な態度で受け応えた。ここで引いたら、ナメられる。ナメられたらいいように利用される。いいように利用されたら、今度は命がいくつあっても足りない仕事をやらされる。
そんな考えが咄嗟に俺の頭に浮かんだ。
「そうかいそうかい、じゃあうちはその命乞いした奴の受け皿という訳か」
瞬時に雰囲気が変わっていくのが分かった。急いでさっきの言葉を訂正しようとしたら。
「そんな舐められてたまるか!」
大沢の沸点は限界を迎えたようだ。大沢は側にあったビール瓶で、部下と思われる男の頭を思いっきり殴打した。部下の頭からは噴水のように血が吹き出している。
「なぁ、田中の兄ちゃん、佐藤の奴他にうちらに関する事言ったか?」
大沢が放つ視線に、俺の肌は鳥肌を上げる。
「いえ、何も言っていません!」
さっきの意気込みはどこ吹く風。俺の声色は二日前のしなれた勢いを取り戻していた。
「なら、あいつには死んでもらうか」
さっきのあの憤慨が嘘だったかのように、大沢はただその言葉を口にする。
「ただ問題は誰が殺るかだ」
動かなくなった部下を尻目に、大沢は椅子に座り、ただ考える。大沢が俺に視線を向けたのは、それからしばらくした後。
「田中、お前が殺れ」
冷たい視線に続けて、大沢はただ淡々と言う。
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