下北沢のホーンテッドアパート

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 その夜――五反田の、やや値の張るシックな創作居酒屋に僕らはいた。  黒とシルバーを基調にしたモダンな店内で頂く創作フレンチが売りのその店で、僕らは、傍目には男二人でテーブルを囲みながら、猫用のカリカリみたいな謎のペレットや、野菜を細く切ってお出ししただけのスティック、土の味のするアスファルト色のディップをもくもくと摘まんでいた。 「不味いな」 「ちょ、ちょっと兄さん!」  これ見よがしの顰めっ面で吐き捨てる兄さんを、慌てて僕は窘める。うっかり店員さんに聞き咎められた日には、さすがにちょっと気まずすぎる。 「や、やめなよ、そういうことを口に出すのはさ」 「あぁ!? 不味いもんを不味いと言って何が悪いんだよ! イマドキ女子におススメの創作フレンチぃ? だったらまずは人間様用の飯をお出ししろこの野郎! ここが捕虜収容所ならとっくに戦時国際法違反で訴えられてるレベルだぞ!」 「いや、確かにヘルシー系の料理ばかりで成人男性には物足りないかもだけどさ……そもそも、今回の目的は食事じゃないんだし、そこは我慢しようよ兄さん」  へっ、とつまらなそうに鼻を鳴らすと、兄さんは生の人参を切っただけの野菜スティックをぼりぼりと齧る。 「俺が気に入らねぇのはな、女ウケのためだけにこんな勘違った店をチョイスする連中のセンスだよ」  その隣では、兄さんに負けず劣らずのうんざり顔で桃子さんが手元の小鉢を見下ろしている。なぜだろう。彼女のために注文したさつまいもとかぼちゃのプディングがお気に召さなかったのか。 「どうしました、桃子さん」 「私、これ嫌いだわ」 「え」  まさかと思うけど、桃子さんまで? 「せっかく他にも美味しいものがたくさんあるのに、どうしてまたこんなものを口にしなきゃいけないの。芋とかぼちゃなんて、戦争の時だけでもう充分!」  そして桃子さんは、ぷいとそっぽを向く。戦中世代に馴染みの味だと思って注文したのだけど、どうやら完全に裏目に出てしまったようだ。 「わ、わかりました。では、別のメニューを注文しますから、何かリクエストは、」 「ハンバァガーがいいわ、ハンバァガー! あるかしら。あとアップルパイ!」 「すみません桃子さん、ここ、肉はお出ししてないお店なんです……」 「何よそれ、本当に食糧難みたい」 「俺は牛丼がいい。大盛ネギ抜き汁なし半玉つき」 「兄さんは……そうだね、今すぐ吉野家か松屋にでもに行くといよ」  まるで幼稚園児の引率だ。そんな騒々しいテーブルの傍らでは、柊木さんが気まずそうに目を伏せている。その顔は、かき氷のブルーアイスをがぶ飲みしたみたいに真っ青に染まっていた。 「あの、大丈夫ですか」 「は、はい……あの……本当に来るんですか」  問い返す柊木さんは今にも泣き出しそうで、さすがに見ていて気の毒になる。かつて心身もろとも追い詰められる原因を作った人間に、本当なら、死んだ後もわざわざ会いたくはないはずだ。  それでも柊木さんは、会うことを――向き合うことを選んだ。 「え、ええ。もうすぐ、」 「来たぞ」  テーブルに身を乗り出しながら、張り込み中の刑事よろしく兄さんが囁く。その視線をこっそり追いかけると、ちょうど二組の男女が隣のテーブルに腰を下ろすところだった。男性側の年齢はどちらも三十前後だろうか。ころころ変わる表情と無駄にデカい声、これ見よがしの高級時計と、無造作に見えてきっちり作り込んだ髪型。どこがどう、というわけではないのだけど、僕が一番お近づきになりたくないタイプの人種だ。  対する女性陣は、秋らしい色合いのカーディガンやスカートでシンプルにまとめている。気張った感がないのに全体的に華やかで、肩に無駄な力が入った男性陣とは対照的だ。 「ほ、本当に……」  僕の隣で、柊木さんが今にも泣きそうな顔で竦み上がる。 「ほ、本当に大丈夫ですか、柊木さん」 「すみません……つい、昔のことを思い出して……」  そう涙目で答える柊木さんは、相変わらず凍り付いたように固まっている。が、無理もないだろう。あの男たちこそ柊木さんの元上司で、かつて柊木さんを虐め殺した犯人でもあるのだから。  生前、柊木さんはあの二人にひどいパワハラを受けていた。フロアでは毎日のように怒鳴られ、他の社員の前で失敗をあげつらわれた。毎度のように無茶な納期を押し付けられ、一週間以上アパートに帰れないこともざらだったそうだ。それでも何とかして納期内に仕事を納めれば、今度は難癖に近いリテイクを出される。終わらない仕事。迫る納期。それでも何とか間に合わせるために削られる睡眠時間。それが、死の直前まで柊木さんが過ごした日常だった。  あの二人が無茶を強いなければ、この若さで柊木さんが命を落とすこともなかったのかもしれない。なのに……  一方、かつてパワハラで虐め殺した部下の霊がそばにいるとは知らない男性陣は、いそいそとテーブルに着くと、さっそくお酒と料理の注文を始める。やけに張り切って見えるのは、これが合コンということになっているからだろう。あくまでも彼らの中では。 「えー? 美結ちゃん、いきなり焼酎からいくのぉ? マジで?」 「いいのいいの。今夜はぁ、酔いたい気分なのぉ」 「今夜はあたしたちのこと、いっぱい酔わせてね?」  美女二人のおねだりに、男性陣は揃ってだらしなく目尻を下げる。そんな華々しいはずのテーブルを横目に眺めながら、なぜか兄さんは苦笑いを浮かべる。 「やべぇな」 「どうしたの、兄さん」 「あの二人、もうスイッチが入ってやがる。……おい柊木。ぼんやりしてっと速攻でお前の仇が潰されちまうぞ。やるならさっさとやれ」 「えっ、ええと……」  兄さんの忠告に、柊木さんは怯えた目を慌てて泳がせる。迷っているのか、それとも、単にあの二人に怯えているのか。 「大丈夫ですよ、柊木さんが行けるタイミングで――ところで兄さん、あの人たち本当に大丈夫? 先に酔い潰されて、その……」 「ああ、その点は心配いらねぇ」  同情めいた笑みでワイングラスを弄びながら、兄さんは呆れ顔で溜息をつく。 「心配どころか、ありゃマジモンのウワバミだよ。昔、あちこちのホストクラブで店のホストを潰しまくったことがあって、今でも界隈には札が回ってるって話だ」 「うわぁ」  僕の脳裏を、ホストたちの屍山血河を足蹴に優雅にワイングラスを傾ける美女二人の姿がよぎる。というか……どこで知り合うんだろう、そんなえげつない人材と。  彼女たちを動員したのも、もちろん兄さんだ。  前のオーナーに譲り受けた契約書から、柊木さんの元の職場を突き止めた兄さんは、職場の人間に近づき、柊木さんが在籍していた頃の社内の様子を聞いて回った。  そこで、柊木さんが元上司に酷いパワハラを受けていたことを知った兄さんは、同じく上司にヘイトを溜める会社の現役女性社員に、兄さんの女友達を合コン要員として紹介させた。彼女たちを餌に上司どもを引きずり出すために。  これは余談なのだけど、わざわざ合コンという体で彼らを呼び出したのは、あの手の連中は、美女の前で恥をかかされるのが一番堪えるんだという兄さんの趣味、もとい自論のせいだ。  そんな、兄さんの娯楽、もとい元部下の復讐劇に付き合わされているとは夢にも思わない男性陣は、鼻の下を伸ばしながら次々とグラスを空けてゆく。女性陣のペースに引きずられているせいだろう、恐ろしくアルコールの減りが早い。 「あいつら、大学時代は銀座のクラブでバイトしててな。不沈空母、鉄の肝臓を持つ女、なんて阿呆な二つ名で今でも銀座じゃちょっとした伝説になっているぐらいだ。今でも時々合コンと称しては、カモにした男の金でしこたま飲んでるらしい。つーわけで、潰される心配はまず――って、今はあの鯨飲コンビの話はどうだっていいんだよ。いいからさっさと殴りに行け。殴ってすっきりして、んでもってさっさと成仏しろ。連中が鼻の下を伸ばしているうちに」 「えっ、ええと……」  「ま、待ってよ兄さん! 柊木さんにも、気持ちの準備が、」 「準備だぁ? 俺がこの作戦を提案して何日経った? 一週間だ! 心の準備なら好きなだけ出来たはずだろ、なぁ?」 「兄さん!」  確かに、柊木さんは復讐を決意した。それでも、一度植え付けられた恐怖心は、そう簡単に克服できるものじゃないんだ。柊木さんは、生前はあの男たちに毎日のように尊厳を踏み躙られていたという。当時のことを思い出し、つい足が竦んでしまうのは、むしろ当たり前の話じゃないのか。 「みんな、兄さんみたいに強いわけじゃない」 「は……?」 「僕が柊木さんの立場なら……ここに居残ることさえ苦痛だったと思う。なのに、踏み止まってる柊木さんは偉いよ。……兄さんには、わからないかもしれないけど」  僕の言葉に、兄さんはぽかんと虚を突かれた顔をする。が、やがて思い出したように眉根を寄せると、はぁ、と聞こえよがしの盛大な溜息をついた。 「わかったよ。じゃあもう好きにしろ。俺は知らん」 「……わかりました」  答えたのは、僕ではなく柊木さんの声だった。その顔は相変わらず恐怖に蒼褪めていたものの、震える双眸の奥には、これまでは見られなかった色が――強い怒りがはっきりと覗いていた。 「心構えは、できていたんです。ただ、いざあいつらの声を聴くと、その、ついつい怯んでしまって……でも」  やおら席を立つと、ついに柊木さんは隣のテーブルに一歩を踏み出す。 「駄目なんです。それじゃ、僕はどこにもいけない」  隣のテーブルでは、柊木さんを虐め殺した男たちが女性陣と焼酎の早飲み競争をやっている。勝ったら王様ゲーム、という条件らしいのだけど、僕に言わせれば何とも呑気な話だ。この数秒後、パワハラで虐め殺した元部下にぶん殴られるとも知らないで。 「ちくしょう、よくも……よくも僕を……!」  そう、僕にだけ聞こえる声で恨みの言葉を吐き出すと、柊木さんは固めた拳を天井へと振り上げた。
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