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「いやぁ、一時はマジで死ぬかと思ったぜ」
ICUから一般病棟に移って三日。早くも普段の調子を取り戻した兄さんは、ついさっき僕がコンビニで仕入れてきた巨大チーズチキンカツをもりもりと喰らいながら、ワハハと派手な笑いを病室に響かせた。
「いや……実際死んでたんだって。一瞬だけど……」
「らしいなー、ウケる」
まるで他人事のように言うと、兄さんは残り半分になったチキンカツを一気に口の中へと押し込む。それを好物のドクターペッパーで胃袋に流し込むと、今度はベッドテーブルに置かれたデザートのバスク風チーズケーキに手を伸ばした。いくら病院食が質素で物足りないからといって、さすがにこれは食べ過ぎだろう。土気色に窶れた兄さんは二度と見たくないけど、かといって、丸々と肥え太った兄さんもそれはそれで拝みたくない。
とはいえ実際、一時は本当に危なかったのだ。
今から四日前。危うげな不整脈を続けていた兄さんの心臓がついに停止し、ICUでは急遽AEDが用いられることとなった。結果、さいわい三分ほどで蘇生したものの、その三分間、兄さんは確かに死んでいたのだ。
「真面目に聞いてよ、兄さん」
慌ててチーズケーキを回収しながら、病床の兄さんを叱りつける。すると兄さんは、子供のようにむぅと唇を尖らせて僕を睨め上げた。
「……そんなにチーズケーキが食べたい?」
「ったりめーだろ? 治りかけの病人の食欲をナメんなよ!?」
子供か、と突っ込みたくなるのを僕は全力で我慢すると、しぶしぶ手元のチーズケーキを差し出す。思えばここ数年、兄さんにはすっかり甘えてしまっていた。こんな時ぐらいは、逆にたっぷり甘えてもらおう。
「わかったよ、ほら」
「さんきゅ!」
さっそく兄さんはチーズケーキに飛びつくと、プレゼントの包みを開く子供のようにいそいそと封を開いた。そんな兄さんの横顔に、ふと、あの夜の横顔がダブる。痛くて、悲しくてたまらないと言いたげな横顔が。
――俺はただ、瑞月を……弟を護りたくて。
――なのに何で、こんなことになっちまったんだろうな。
「あのさ……兄さん」
「あン?」
プラスチックスプーンを咥えたまま、兄さんは顔を上げる。相変わらずその顔は子供じみていて、あの日、兄さんが見せた悲しみは影すら見当たらない。
でも、あの悲しみは確かに兄さんの中に存在していて。
だとすれば、もう、兄さん一人に背負わせるわけにはいかない。
「僕、感謝してるんだ。兄さんにはずっと……でも、それと同じだけ、兄さんが苦しむのは嫌なんだ。だから……もう、できるだけ一人で抱え込まないでほしいんだ。頼りがいがないのはイヤってほど自覚してるんだけど、でも……僕らは、家族だから」
あの時、兄さんが呟いた「こんなこと」が何を指していたのか、それは僕にもわからない。赤羽の部屋で起きた顛末かもしれないし、啓太君と美里さんのことだったのかもしれない。あるいはもっと昔、僕を両親から引き離したことかも――でも、何であれ兄さんはいつだって僕を必死に護ってくれたし、いつだって、僕を生者としてあるべき場所に導いてくれた。
そんな兄さんには、心から感謝している。ただ、これからはもう、感謝を捧げるだけでは不十分なのだと自覚もしている。
僕は兄さんの家族だ。家族とは支え合うものだ。だから僕も兄さんを支えるし、兄さんを害する存在は、全霊で叩き潰す。
「ははっ、いきなり何の話だよ」
チーズケーキをつつきながら、僕の決意を兄さんは軽く笑い飛ばす。
「あー、ひょっとしてアレか? 幽体離脱してた時に、俺、なんか喋ったのか? だったら悪いな。俺、その時のこと全っ然覚えてねぇんだわ」
「……そう」
「でも」
ふと振り返ると、兄さんは、どこかばつが悪そうに苦笑する。
「お前にそう言ってもらえると……ははっ、嬉しいな」
「うん……」
兄さんの笑みにつられて、僕もつい頬が綻んでしまう。そういえば、兄さんのこんな穏やかな笑顔を見たのはいつぶりだろう。父さんたちが亡くなるまでは、よく、こんなふうに笑っていた気がするのに。
ああ、そうか。
辛くないはずがなかったんだ。兄さんも。ある日突然両親を一度に亡くして、僕が悲しかったように、兄さんも同じだけ悲しかったんだ。ただ兄さんは、僕よりも演技がずっともっと上手くて、悲しみなんて最初からなかったように振る舞っていただけで。
「ところで兄さん、ほかに何か欲しいものはある? 次に来る時にでも持ってくるけど?」
「あー、だったらアレだ。俺のタブレットを頼む。ネット環境がねぇとどうも落ち着かんのよ。楽待に旨い物件が出てねぇか気になってさ。いや、完全に職業病だなこりゃ」
確かに、それは完全に職業病だ。というか、この期に及んでまだ物件を漁る気でいるのか。麻布の一階は埋まっていないし、赤羽の物件に至ってはリフォームの見積もりすら立っていないのに。
「あのねぇ……まぁ、別にいいんだけどさ、でも今後は、事故物件を内見する時は僕も一緒に連れてってよね。というか、僕がいない時に見に行っちゃ駄目。いい?」
すると兄さんは、拗ねたようにむぅと唇を尖らせる。
「へいへい。肝に銘じますよ」
「全然肝に銘じてないよねそれ! っていうか……何であんな危険な物件に手を出したわけ。もう……僕には任せないんじゃなかったの」
――もう二度と、俺の仕事に関わるな。
そう兄さんに告げられた時、足元の地面が崩れ落ちる心地がした。お前が生きる場所はこの世のどこにも存在しないと、そう、告げられた気がしたのだ。その兄さんが、僕に隠れて事故物件を買い集めていた。霊媒の専門家に頼るつもりだったのなら別にそれで構わない。ただ、もし……もう一度、僕を頼るつもりでいてくれたのなら……
「そりゃ……あれだ、その……」
「うん」
「や……安かったから」
「……」
わかっていました。ええ、わかっていましたとも。
結局はカネなんですよね。利回りなんですよね。美しい兄弟の絆だとか、そういう青臭い動機をこの人に期待した僕が間違っていたんです、ええ、ちくしょう。
「安物買いは損をするって、誰のセリフだったっけ」
「しょ、しょーがねぇだろぉ? ついだよ、つい! 冷やかし半分で交渉を持ち込んだら、あらぁ死んだ旦那にそっくりのいい男! いいわぁ格安で売ってあげるわぁっつーんで、それで、ついさぁ……」
僕は今世紀最大のくそでか溜息をつくと、隣の椅子で仕方なく見舞いに付き合っていた桃子さんを振り返った。
「行こう、桃子さん」
すると桃子さんは、冷ややかな目で「そうね」と頷くと、用事は終わりだとばかりに早々に病室を後にする。その背中に続きかけた僕は、背後から呼ぶ声にふたたび足を止めた。
「瑞月」
「今度はなに?」
「俺が退院してからで構わないんだが……一つ、除霊を頼みたい物件があるんだ。いけるか」
「また買ったの!? 性懲りもなく!?」
というか、通信環境もない病院内でどうやって。それとも、今回の一件よりも前に購入した物件だろうか。でも、僕が知るかぎり赤羽の物件のほかに売買契約のやりとりは何も……
「いや、新規で買ったやつじゃない」
そして兄さんは、ふと、窓の外に目を向ける。怖いほど澄んだ青空に浮かぶのは、空の青に融けながら、それでもなお僕らを見守る細い細い三日月。
「……と、いうと?」
「俺たち兄弟が、最初に手に入れた自己所有物件だよ」
そして兄さんは、窓に向けていた遠い目を、遠い目のまま僕に振り向けた。
◇◇◇
弟と、その隣に付き添うはずの桃子を見送ると、陽介は疲弊した身体をどさりとベッドに投げ出した。
本当は、食欲もあまり戻っていないし、体力に至っては常にガス欠ギリギリだ。それでも、弟の前ではつい強がる癖が染みついてしまった愚かな兄は、別に食べたくもないコンビニスナックをバカ喰いし、案の定、油でもたれる胃袋を持て余す羽目になっている。
悪い癖だとは自覚している。でもそれは、弟を無理やり両親から引き剥がした自分が、終生演じなければと誓った役目でもある。兄を信じることで辛うじて自分の正しさを支える弟の前では、弱さも、懊悩も、見せられるはずがなかったのだ……でも。
――できるだけ一人で抱え込まないでほしいんだ……僕らは、家族だから。
「俺の知らない間に……随分と成長しやがって、あいつ……」
だとすれば、変えたのはきっとあの女だ。死の淵に立つ陽介の目にうっすらと映った、やたら強い眼を持つ美しい女。強く賢く、それでいて慈悲深い目を持つその女は、終始、瑞月の背中を見守っていた。深い信頼と情愛の籠もる目で。
最初はもちろん気に入らなかった。そもそも瑞月を両親から引き剥がしたのも、弟の心を死者の側に傾かせないよう引き留めるためだったから。ただ、あの女はただの死者とは違う。過去に生きるだけの死者とは。あの女は、未来に生きる目をしている。瑞月と一緒に。だから――
「……これからも、弟を頼む」
そう、誰もいない個室に告げたのは、何となく、あの女が病室に引き返してきた心地がしたからだ。陽介は瑞月と違って死者が視えるわけではない。ただ、あの屋敷で何か月も一緒に暮らしたせいか、ここ最近、あの女と思しき気配を感じることが増えた。
ふと、一陣の風がふわりと頬を撫でる。やけに気持ちの良い風だなと目を細めた陽介は、病室の窓が一つも開いていないことに、後になってようやく気づいた。
◇◇◇
「忘れ物は見つかりましたか?」
ようやく追いついてきた桃子さんに訊ねると、桃子さんは「ええ」と嬉しそうに頷いた。やけに上機嫌に見えるのは、間食がばれた兄さんが病室で看護師さんに叱られるなりしていたのかもしれない。
「大丈夫よ。行きましょう」
とりあえず病院を出ると、僕らは駅前のスターバックスへと向かった。そこは先日、梶井さんと一緒に訪れた店で、あの日以来すっかりフラペチーノにハマる桃子さんは、最近では外出のたびに緑の看板をご所望し、その余禄をカロリーもろとも僕に摂取させるというハードなデブ活を僕に強いている。昨日、久しぶりに体重計に乗ってみたら、先月に比べて二キロも体重が増えていた。マッチョな霊に絡まれるのは嫌だけど、さすがにそろそろジム通いを検討してみるか……
「もう二度と、あんなことは言わないで」
「えっ」
店の前まで来たところで、ふと、桃子さんは言った。さっきまでの上機嫌が嘘のように、今は不機嫌そのものの目で僕を睨め上げている。女性の機嫌は演歌歌手の早着替えよりも切り替わりが早いとはいえ、さすがにこれは限度が過ぎるのでは?
「あの、加奈とかいう女に言ったことよ。憶えていないの?」
「えっ? ……ええと」
そう言われても、あの時の会話はほとんど記憶に残っていない。あの時は兄さんを護るために必死で、それ以外のことは何も考えられなかった。口は、僕の意志や思考とは関係なく何かをまくし立てていて――……いや。言ったぞ。確かに言った。風俗で童貞を捨てるだとか何だとか。確かにあれは、女性の前で口にしていい言葉じゃなかった。
「いや、あれはその、売り言葉に買い言葉と言いますか、その……だって酷いじゃないですか、本人の努力だけじゃどうにもならない部分を侮辱するなんて。……僕だって、好きで童貞を拗らせてるわけじゃないんですし……」
「そこじゃないわ」
相変わらず桃子さんは、そんなこともわからないのかと言いたげにむすっと僕を睨んでいる。
「あなたの命はね、あんな馬鹿女にあっさり擲っていいものじゃないの」
言い残すと、桃子さんはつかつかと店の中に入ってゆく。
見ると、僕の〝一人語り〟を怪訝に思ったらしいテラス席の客が、ひそひそと耳打ちしながら僕をくすくすと嘲笑っていた。もう何度、浴びせられたか知れない白眼視。そのたびに心は痛み、迂闊に街へ出たことを悔やんだ……でも。
「待ってくださいよぉ、桃子さぁん」
もう僕は逃げない。この体質は僕の一部で、この体質が呼び寄せる縁もまた、僕の人生の一部なのだから。
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