下北沢のホーンテッドアパート

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 その夜も、桃子さんは二階のバルコニーにいた。  青く清澄な十五夜の月明かりの中、青白く輝く花崗岩製のバルコニーでぽつんと月を見上げている。その足元には、やはり例によって影がない。幽霊だから当然と言えば当然なのだけど、こうした実例を目の当たりにすると、やはり、僕と彼女は決定的に違うのだと思い知らされる。  そのことを、寂しい、と感じる僕がいる。 「今夜は、月が綺麗ですね」  すると、なぜか桃子さんは不意を突かれた猫の顔で振り返る。てっきり、こちらの気配に気付いていたものとばかり思っていたのだけど。 「あっ……すみません、別に、脅かすつもりはなかったんです」 「い、いえ……お気持ちは、その、嬉しいわ。でも……私は死人で、あなたは今も生きているのだし、その、」 「え?」  急に何の話だ? それはそれとして、なぜ桃子さんは赤面しているのだろう。まさか風邪――いや冷静になれ瑞月。そもそも幽霊が風邪を引くなんてありえない。 「あなた、漱石はお読みになって?」 「えっ? そ、漱石って……夏目漱石ですか? 吾輩は猫の?」 「いいわ、忘れて」  ぷいと月に向き直る桃子さんはなぜか不機嫌顔で、僕は申し訳ない気分になる。理由はわからないが、どうやら不愉快な思いを強いてしまったようだ。 「それで、どうなさるの」 「ええと、何の話です?」 「柊木さんよ」 「あっ……え、ええと」  結局、柊木さんの口からこれという思い残しを聞き出すことはできなかった。  そもそも彼自身、なぜ自分が成仏できずにいるのか、魂が現世に縛られているのか、その理由にまるで思い当たるところがないらしい。  わざと伏せられたのか――でも、僕の目には到底演技には見えなかった。 「すみません。僕自身こんなケースは初めてで、その、対処の仕様がない、と言いますか」  僕の除霊スタイルは、まず相手の口から要望なり思い残しを聞き出すところから始まる。その上で、これをゴールとして解決の道筋を逆算して探るのだけど、逆に言えば、このゴールが定まらない限りは解決の道筋さえつけられないのだ。  もちろん、状況証拠からアタリをつけることは可能だろう。今のところ確定しているのは、アパートに居残る霊が柊木さんだったことと、彼自身、今の状況に困惑していること。夜な夜なアパート中に啜り泣きを響かせていることぐらいだろうか。が、それでも情報としては乏しすぎる。  ただ……あるいは兄さんなら。  事実、すでに兄さんは何かしらの仕込みに入っているらしく、今夜もそのために屋敷を留守にしている。こんな乏しい情報量で一体何をと訝しんでしまうのは、要するに僕が凡人だからだ。前回もそうだった。僕が思いつきもしない切り口で、見事に桃子さんの思い残しを暴いてみせた。……それでも除霊に失敗してしまったのは、単純に、相手が悪かったとしか言えない。  きっと今回も、前回のように意表を突く角度から兄さんなりの解決策を編み出してくれるに違いない。 「とりあえず、今は兄さんに任せましょう。兄さんならきっと、何か良い方法を編み出してくれるはずです」 「お兄様が?」 「はい。実際、桃子さんの件も兄さんがほぼ一人で解決したようなものですし、僕があれこれ口を挟むより、兄さんに丸投げした方がスムーズに事が運ぶんです。……確かに、傍目にはただの傍若無人な守銭奴に見えますけど、根はものすごく善良な人格者なんですよ、兄さんは」  そう。加えて兄さんはああ見えてなかなかの理論派で、これまでも、弾き出される答えは決まって正しかった。  その正しさに、僕はいつも助けられてきた。 「信頼していらっしゃるのね、お兄様のこと」 「ええ」 「それでも、あなたはあなたの答えを求めるべきだと私は思うのだけど?」 「……え」  意外な返答に意表を突かれた僕は、彼女の冷たく突き放す双眸にはっとなる。確かに、今の言い方では信頼というより、単に依存しているかのような――  いや事実、僕は依存している。兄さんの示す正しさに。  だが、僕は兄さんに比べて頭も悪く機転も利かない。下手な考え休むに似たりとも言う通り、僕のような凡人は、大人しく兄さんの正しさに従うのが正解なのだ。  わかっているのに。僕を見つめる彼女の眸を、僕は、なぜか直視できない。 「……僕には、まだ」  さすがに居心地が悪くなって、僕はバルコニーを後にする。自室に飛び込むと、途端に力が抜けてそのままベッドにへたり込んだ。 「答えなんて」  あるわけがない。出せるはずもない。そもそも僕は、否、〝僕〟それ自体がすでに間違っている。前提の狂った問いに、そもそも答えなどあろうはずもないのだ。
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