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2
スカートについたフリル、ツインテールを飾るリボン。くまのぬいぐるみに、着せ替え人形。ボクは、生まれたときから可愛いものに囲まれていた。
母は、その真ん中にいるアカリを見ては「かわいいね」と微笑む。所謂、母は“女の子らしい”を望んだ。そんな母によって構築された二人だけの世界は、まるで柔らかな真綿。傷つけるものは何もなかった。
でも、そんな世界は長くつづかない。
母の育休が終わると、アカリは保育園に預けられることになった。持ち物は、ピンクか白色。身につけるのは、スカートにリボンの髪飾り。ボクにとっては当たり前のものばかりだ。
子どもたちの間で言葉が交わされる前までは、保育士の取り計らいで話すのが苦手なボクでも馴染めていた。力が尽きるまで遊び、眠りたければ眠る。その中で男の子、女の子なんて小さな差異にすぎなかった。
なのに、歳を重ねるにつれて周りから「男の子なのに」と囁かれることが多くなった。
始めは大人たちだった。子どもを迎えに来た母親たちは、ボクの性別を知ると大袈裟に眉を顰める。そして、華やかな色で飾られた髪の毛からスカートへ視線を下げれば、子どもを避けさせるか、母親の間で話題にされるか。そんな姿に何もわからぬ子どもながらに、嫌な感情を抱いたのは確かだ。
そんな大人がそばにいると子どもは、自然と言葉や行動を真似していく。でも、子どもは大人と違って遠慮を知らない。それゆえに、大人以上に残酷だった。
「男なのにスカートってヘンなの」
「ママが、おかしいからあそぶなって言ってた」
同じような言葉の繰り返し。それは密かに聞こえてきた母親たちが話す言葉と全く同じだった。子どもは大人が思っている以上に大人を見ている。
子どもは無邪気に悪意を本人に突きつけ、傷つける。その度に保育園の先生はその子たちを怒り、ボクを輪の中に入れようとした。でも、みんなの中で異端と決めつけられた以上、入れられることが許されるわけがなかった。
本当は、保育園になんて行きたくなかった。できることなら、家でお留守番しておきたかった。けれど、母はいつも忙しそうで、行きたくないなんて心配させるようなことは言えなかった。
だから、アカリは教室の隅っこで一人、お姫様が出てくる絵本を読んだ。覚えたばかりのひらがなを指でなぞっては、いくつものお姫様に胸を躍らせる。物語に出てくるお姫様は本当にキラキラしていて、可愛くて、ボクの憧れだった。
あの日もそうだ。
みんなが園庭で遊んでいる中、アカリはいつもと同じように棚から絵本を数冊取り出すと、床に並べて今日読む絵本を選ぶ。これは昨日読んだ。じゃあ、こっちにしようか。絵本を選ぶ時間も楽しみの一つだ。
「なまえ、なに?」
そうしていると突然、見知らぬ声とともに絵本の上にかかる人影。アカリは驚きに肩を跳ね上がらせながらも、おそるおそる顔を上げる。するとそこには、見たことのない男の子が目の前に立っていた。
「……み、みしま、あかりです」
「あかり、いっしょにあそぼっ!」
その言葉とともに差し出される手。男の子の眩しすぎる笑みに、アカリはとっさに目を細める。この子は、ボクのことを知らないのだろうか。
「でも、ボク……」
男の子の誘いに戸惑い、表紙に描かれたお姫様に視線を落とす。嬉しいけれど、これ以上傷つきたくない。だから、答えを出せずに唇をモゴモゴと動かしてしまう。園庭からは、楽しげな声が聞こえてくる。
「もう! いいからいくぞ」
ぐるぐると答えを出さず、逡巡するアカリを待てなかったのだろう。男の子は膝に置いていたアカリの手を取ると、園庭へとつづくドアへと駆け出した。
途中、担任の先生に帽子を被せてもらうと、先生の手を借りながら靴を履く。そうして立ち上がれば、再び男の子に手をつなげられる。引っ張られるままに走ってみれば、男の子はみんなが集まっている中へと向かっていった。
「おれとアカリもいれて」
「えー」
男の子が言った途端、みんなから拒絶の声が上がった。
アカリはそっと後ろに下がる。そのとき、つながる手に思わず力を入れてしまった。母よりもずっと小さな手。こうして母に助けを求めると、いつもアカリを助けてくれる。それを、無意識に男の子にもしてしまった。
「いいね、何して遊ぼうか」
先生はパチンと手を鳴らすと、離れようとする子どもの背中を優しく押し戻す。アカリを子どもたちの輪に入れようとあの手この手を尽くしてきた先生にとって、またとない好機。なんとか子どもたちと遊ぶ方向に持っていこうとする。
「ヒロくんはいいけど」
「おれ、あそびたくない」
やっぱりな、と思う。
小さく聞こえるのは、自分を拒否するものばかり。アカリは溢れてくる涙を我慢しようと俯いたが、頬を伝った涙はぽつりと砂へと落ちていく。視界に映るスカートも靴も、母が可愛いと選んでくれたもの。
やっぱり、部屋に戻ろう。そう、アカリが手を離そうとしたとき。外れかけた手をぎゅっと握られる。
「おれ、アカリとあそびたい!」
男の子が高らかに宣言する。ぱっと顔を上げてみれば、見えるのはまっすぐに伸びた背中。自分と同じくらいの背丈だが、アカリにはその背中がやけに大きく思えた。
「お前らとはあそばない」
男の子はべーっ、と言うと走り出す。
アカリはつながった手に引っ張られるまま、男の子の背中を追った。頭の中では、さっき呼ばれた自分の名前が反響する。置いて行かれないようにと手を握り直せば、男の子は力いっぱい握り返してくれる。
気付くと、二人は園庭の隅に来ていた。保育園を囲うように植えられた木々たちの下、アカリはよくここで先生と葉っぱを集めた。そこで、ひんやりとした空気に頬を撫でられながら速くなった息を整えると、男の子と肩を並べて座った。
二人の間には、結ばれたままの手。
アカリは我慢が解けると、声を上げて泣き始めた。さっきの男の子の一言が、必死に塞き止めていた蓋を外したみたいだ。嬉しくて、たまらなかった。
ひくひくと身体を震わせ、もう片方の手で涙を拭う。早く止めないと。そう急げば、横から小さな手が伸びてきた。男の子は自分の裾を伸ばすと、それをアカリの濡れた頬に当てる。
「みんな、ボクのことキライっていうの」
アカリは止めどなく溢れる涙とともに、今まで言えなかった弱音を漏らした。
男の子なのに、スカートを履いているのはおかしい。男の子でも女の子でもない男女。これまで投げられてきた言葉を初めて自分の口で言ってみる。その度に、押し隠してきたモヤモヤと複雑な感情が膨らんでいく。
男の子はその間、ずっと相槌を打ちながら頭を撫でてくれた。それは可愛がりのようでくすぐったかったが、そのおかげで胸の中に渦巻いていたモヤモヤは薄れ、落ち着きを取り戻していく。
「アカリはかわいいよ」
ようやく涙が止まりかけた頃。アカリが開いた口が閉じると同時に男の子が呟いた。
そんなこと、母か保育園の先生しか言われたことがなかった。その言葉を聞いた瞬間、目を丸くして男の子の顔をじっと見る。男の子は嘘をついていないとすぐにわかるくらいの満面の笑みを浮かべている。
「おれ、アカリとなかよくなりたい」
「でも、ボクといると……」
「おれのなまえは、なかがわひろと。ヒロってよんで!」
男の子、ヒロはそう言うとつながった手を上下に振る。最後の涙をヒロに拭われると、自然と笑顔になっていく。ぽんぽんっと頭を撫でられれば、モヤモヤしていた気持ちが温かなものへと変わっていった。
アカリはヒロとおしゃべりしたくて、たくさん自分の話をし始めた。お姫様が好きなこと。おやつは、おせんべいよりもプリンだと嬉しいこと。暗いところが苦手なこと。母にも内緒にしていたことが、するすると言葉になって出てきた。
ヒロは戦隊ヒーローが好きで、赤が好きで、ピーマンとナスが苦手だと言った。目が合うと二人、ふふっと笑う。話しているだけで楽しくて、ずっと二人でいられると思った。
どこからか、アカリとヒロの名前が呼ぶ声が聞こえてくる。
「せんせい、よんでる」
担任の先生の声が、何度もアカリの名前を呼ぶ。
行かないといけない。先生の言うことをよく聞くのは母の約束だ。でも、先生の元に行けば、ヒロとおしゃべりできない。そう思うと、ワガママが顔を出し始める。
「アカリ、いこっ」
ヒロが立ち上がり、アカリの手を引く。行こうと誘われるけれど、アカリは地面にお尻をつけたまま首を何度も横に振った。いつもならすぐにスカートのついた砂を払うところだが、今はここから動きたくない。
足音がだんだんと近づいてくる。
「あっ、見つけた」
アカリが顔を上げる。ヒロの後ろに、隣のクラスの先生が笑って立っていた。そして、遅れてアカリの担任の先生がやってくる。
「おやつの時間だよ。二人とも行こうか」
先生の声に、先生を見上げていたヒロの瞳がアカリを映す。六つの瞳の先に自分がいる。そんな状況で嫌だ、とは言えなかった。アカリはゆっくりと立ち上がるも、悲しくて地面を見つめる。
モゴモゴと唇を動かす。視界の端にはまだ、小さな手がつながっている。
「アカリちゃん?」
担任の先生がしゃがむ。目の前には、心配そうに眉尻を下げている顔。それにアカリは駄々をこねるように身体を左右に揺らしながらも、差し出される先生の手をしぶしぶ握った。ヒロとは違う、少し大きくて細い手。
アカリは左手をヒロの手、右手を先生の手とつないで歩く。とぼとぼと園庭を抜け、部屋に近づいていくと中から賑やかな声が聞こえてきた。アカリは、この騒がしさが苦手だった。思わず、靴を脱ごうとしていた手を止める。
アカリは脱いだ片方の靴を見つめた。ピンクの靴は、初めて履いたときよりも先っぽが汚れている。悲しいのに、それを言えない自分が悔しい。そんな気持ちに押し潰されそうになっていれば突然、頭を撫でられた。
急いで顔を上げる。そうすれば、先生と手をつないだヒロが立っていた。
「アカリ、またな」
そう言って、先生に引かれたヒロが隣の部屋へと入っていく。アカリはじっと離れていくヒロの姿を見つめた。ドアの手前でヒロが手を振る。その満面の笑みにつられてアカリも笑うと、小さく手を振り返した。
「アカリちゃんも行くよ」
はーい、と返事をし、アカリも先生の後を追って部屋の中へと入っていく。
瞬きをするたび、さっきまで自分に向けられていたヒロの笑みを思い出す。その笑みに、ボクは初めてこの世界に光が射しこんだ気がした。
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