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中学校に入る前、母とヒロのお母さんと三人で話し合いが行われた。議題は制服について。小学校は私服だったけれど、中学校では制服を着ないといけない。女の子はセーラー服で、男の子は学ラン。セーラー服の胸の前で結ばれるリボンは黒色だ。 その話し合いの冒頭、母は学ランかセーラー服か、選ぶのはアカリの自由だと告げた。そして、今までごめんなさい、と頭を下げられた。そんな母の姿に、アカリはただ口を閉ざして母のつむじを見つめることしかできなかった。 そうして無言でいる親子に代わって、ヒロのお母さんが話を進める。前もって母から聞いた話では、女の子を熱望するあまり、男の子として生まれたアカリを女の子として扱って心のバランスを保っていたと。でも、ヒロたち家族と出会い、交流していく中で心に余裕を持てるようになったことで、アカリを真正面から考えることができるようになったという。そして、突然のことで戸惑うかもしれないが、嫌ならもうスカートを着なくてもいいし、長く伸ばした髪も切っていいと。 アカリは無言でその言葉たちを噛みしめる。何も感じなかった、のではない。与えられた衝撃の凄まじさに心が追いつかず、反応することができなかったのだ。 母の事情は、なんとなくだが察していた。何故なら、母は昔から周期的に心を不安定にさせていたから。決してアカリにそれを見せることはなかったが、夜中にトイレで起きたときに祖母とともに泣く母の姿を幼少期に何度か見かけたことがあった。 そして、たまに会う実の父は、そんな母のことを受け止め切れなかったのだろう。面会の日、アカリが普段通りに女の子の格好をして現れると、父は微妙な表情を浮かべる。その顔は年々増していくものだから、いつの日からか、父と会うときにはボーイッシュな格好を敢えて選ぶようになった。 じゃあボクは? この長い髪がスカートが、フリルやピンクが好きなのか、嫌いなのか。 アカリにとって、それらは人に馬鹿にされ、嫌悪される部分であった。保育園、小学校と歳を重ねるたびに色んな人から嫌なことをたくさん言われたし、仲間はずれにもされてきた。 なのに、その全てを嫌いだと思ったことは不思議なほどない。 今のお気に入りは、小花柄のワンピース。アイロンで巻いた髪を飾るピンクのリボン、フリルのついた靴下を着るとお姫様になったような気分になる。アカリはそれだけで嬉しくて、楽しかった。 でも、それは子どもの頃から洗脳されてきたからだ、と言われたら否定することはできない。 ――保留にさせてほしい アカリは、母とヒロのお母さんにそう言った。 母のすすり泣く声が響くこの部屋で、アカリの言葉は異質のように感じた。バクバクと緊張を知らせる心音。アカリは机の下で部屋着にしている、ふわふわとしたショートパンツを力いっぱい握りしめた。 無性に今、ヒロに会いたい。 すぐに二人の母から了承を得られた。そうすると、アカリはつづけてこの場から立ち去ることへの許しを請う。この混沌とした空気から、困惑する自分自身から、少しだけでも距離を置きたかった。 俯く母に代わり、ヒロのお母さんが頷く。それを見た途端、アカリは椅子を倒すような勢いで立ち上がると、足早に自宅を後にしていく。目指すのは、ヒロの家だ。 すっかり暗くなった街、電灯の光を頼りに歩いていく。家から出ると同時に速く動かしていた足からは力が抜け、重い足取りで進む。沈んでいく気分に比例して項垂れる先に広がるのは、薄汚れたスニーカーの先っぽ。それを見つめながら歩数を重ねていくと、ぽろぽろと雫が目から零れ落ちていった。 止める気力なんてなくて、たらたらと涙を溢しながらヒロの家の呼び鈴を鳴らす。そうすると、ヒロのお姉さんが出迎えてくれた。心配そうに眉尻を下げるその表情は、ヒロにそっくりだ。 肩に添えられた優しい手に促されるまま、家の中に入っていく。ヒロの家特有の柔らかくて、いるだけで落ち着く雰囲気。いつもと同じだけれど、今日はずっと温かく感じる。それに触れた途端、ぐらりと身体の支柱を失い、お姉さんに支えられながらヒロの前まで歩いていく。ボクに代わって、お姉さんが扉をノックしてくれた。 ゆっくりと扉が開き、ヒロの顔が現れる。その瞬間、アカリは思わずヒロに抱きついた。 ヒロも今日の話し合いの内容を知っているようだ。アカリが突然現れても驚くことなく、静かに部屋へ招き入れてくれる。アカリは背中に回した手にぎゅっと力を込めると、身体をピッタリとくっつけた。鼻を掠める石鹸の香り、服越しにある体温。それだけで幾分か気持ちが静まる。 アカリはベッドに腰かけるヒロの隣に座り、ヒロの身体に寄りかかるように肩に顔を埋めた。ヒロは背中を撫でながら、大丈夫、と何度も耳元で囁く。その声に合わせて息を整えていくと、アカリは思うがままに言葉を発していった。 “ボクはスカートを履きたいのだろうか” “ピンクや白より、青や黒が好きなんだろうか” 全部わからない、とヒロに涙を押しつける。今までの当たり前が次から次へと壊されていく。それはまるで暗闇の中にぽつんと一人、置いてきぼりにされているようだ。 アカリは現実でも一人にならないよう、必死にヒロの服を握りしめる。 ヒロだけには嫌われたくない。もう、一人にはなりたくない。みんなに仲間外れにされてもいいけど、ヒロに無視されたら生きていけない。 懇願にも似た気持ちでヒロに縋りつく。目元に触れるTシャツはすっかり濡れてしまっている。それを上から塗り潰すように閉じた目を置けば、震える身体が抱きしめられ、包まれる。 「どんなアカリも、アカリだよ」 背中を撫でていた手が上がってくると、垂れた髪が耳にかけられる。そして、ヒロの身体が離れていく。二人の間にできる空間を眺めれば、顎が掬い取られ、顔が上げられる。そうすると、待っていたかのようにヒロと目が合わせられる。 「俺はいつだって、アカリの味方だから」 ――俺と一緒に考えていこう ヒロはそう言って、頭を撫でる。目の前にあるその顔は穏やかな笑みが浮かべられ、髪の上を滑る手のひらは優しい。自分に贈られた言葉。その意味を呑みこんだ途端、崩されてきた自分の中が端から順に、丁寧に埋められていく。 「大丈夫、俺がいるから」 ヒロのその言葉だけで、ボクはボクであっていいのだと信じさせてくれる。
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