ワンダフル・ワールド

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ワンダフル・ワールド

 俺が音楽の道を諦めた理由はただ一つ、家にお金がなかったからだ。  俺達の時代は、ネットを使えば誰でも音楽を発表することができる。家にピアノなどの楽器がなくても、パソコンやスマートフォンにそれ用のソフトをインストールすれば、十分音を鳴らす事は可能だ。とはいえ、本格的に作曲や歌唱の道を極めたいと思ったなら、専用の学校で学ぶのが一番であることに変わりはないのである。  しかし、現実的な問題、どんな学問であっても極めたいと思うのならばお金がいる。俺の家は、少々特殊――別段珍しいわけでもないとは思うが――な家庭環境であったため、そんな余裕はどこにもなかった。早い話、母親がク――かなりアレであったから、である。  父の顔は、幼い頃に少し見たきりだ。気がつけば家からいなくなっていた。時折漏れる母の愚痴から察するに“多少の金があって、顔だけは良かったのに性格がクズ”“多少の浮気も許容できないような器の狭い男”であったらしい。つまり、俺が幼い頃に離婚して出て行ったのだ。浮気も許容うんぬんと言っているということは、十中八九母の浮気が原因だったのだろう。お前が悪いんじゃねぇか、なんてことをはっきり言ってやれたらどれだけすっきりしたことか。残念ながら母は怒るとすぐ手を上げる人だったので、あらゆる文句は封殺されたわけだが。  その父が僅かに送ってくる養育費の大半は、母の遊ぶ金に消えていったらしい。最低限食事をすることはできたが、服が小さい頃のものをいつまでも直して着る羽目になったし、俺が大きくなって自分で買うまで家にはテレビもない有様だった。しかも、いつの間にかもう一人家族増えていたから笑えもしない。  弟の名前は、幸太(こうた)。――しあわせ、という文字を使ったということは、母は弟に幸せを望んだのだろうか。ちなみに俺の名前は愛斗(あいと)。愛、なんて文字を貰ったわりに、愛された記憶などほとんどないわけだが。 『にーに、にーに!』  幸太は、男遊びばかりでまともに家にもいない滅茶苦茶な母親から産まれたにしては、随分と素直で優しい子供に育ってくれた。誰かもわからない父親の血のせいなのかどうなのかはわからない。ただ、結果十三歳にして子育てを一手に引き受けることになった俺の事を、母親よりも慕ってペタペタ後ろをついてくるのである。可愛いと思わない筈がなかった。覚える言葉も、ママよりにーにの方がずっと早かったほどである。先生に特別な許可を貰って、可能な限り家で勉強できる時間を増やしてもらいつつ、俺は幼い幸太の面倒を見続けた。  彼は俺にとって、弟というより息子に近い存在になっていたと思う。アレな母親に、まともな愛情など期待できるはずがない。幸太には、自分がしたような淋しい想いなどできる限りさせたくなかった。幸太を育てるため、俺は中学を卒業するとアルバイトを始めた。大好きだった作曲も歌も、趣味だけで続けることにしよう思ったのである。それを極める為に費やすお金など、今の俺にはどこにもないのだから。
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