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 窓の外を見ると最新式の蒸気自動車が道を走っていた。新しもの好きの人達はこぞって乗りたがるらしいけれど、私はやっぱり馬車の方がいいかな。馬、かわいいしね。  道端にいた子供達が自動車を見て歓声を上げている。乗っているおしゃれな紳士淑女が手を振ると、子供達はさらに盛り上がった。 「子供はかわいいよね」  思わず漏れた私の声には、誰も反応を示さない。 「ねえ、聞いてる?」  私が振り向くのとほぼ同じタイミングで、どたーん! という音と「んぎゃあ」という悲鳴が聞こえた。いないと思ったら書庫にいたらしい。おそらく高い位置の本を取ろうとして踏み台を使い、バランスを崩して転倒したのだろう。ドジっ子め。  散らかる資料を踏まないようにしながら書庫へ向かう。 「大丈夫かなー」 「大丈夫じゃないと思う。助けてくれ」  私の予想通りだった。積み上げられていた本と本棚上段の本が見事に崩れ落ちている。そして、そんな本達に埋まっている小柄な少年の姿が見える。  くるくるした短めのブラウンの髪に埃が被さっていて、何とも言えない微妙なグラデーションを作っていた。いつもかけている黒縁の眼鏡はどこへ行ってしまったのだろう。衝撃で落としたのだろうか。  私が黙ったまま観察をしていると、少年は手を振り上げた。 「もう! 黙ってないで早く助けてくれよ。動けないんだよ」  仕方ないなあ。  少年の手を掴み、引っ張る。すると、覆い被さるようにのしかかっていた本達が少年の上から落ちていった。そして、少年は無事に本の山から解放された。めでたしめでたし。 「全くもう」  助けてあげたのに彼は何だか不服そうだ。口を尖らせて私を睨む。 「呼んでも全然返事をしない君が悪いんだぞ。脚立を押さえてもらおうと思ったのに、来てくれないのだから酷いやつだ。だからこうして倒れてしまったんだぞ」 「えー、私の所為なの」 「当たり前だろ」  外の景色を見ていてそちらに意識がいっていたようだ。ごめんね。けれど口には出さない。呼んでも返事がないのなら呼びに来ればいいのだ。 「リゼ」 「あ、はい。何かな」  そうそう、こうやって聞こえるところで呼べばいいんだよ。  私は笑みを顔面に貼り付ける。 「何だその顔。気持ち悪い」 「はははは失礼な」  少年はやれやれと肩を竦めた。 「事務所の片付け頼んでたでしょ。終わった?」 「あ」  そうだ。そういえばそうだった。  私は彼に事務所の片付けをするように言われて、資料や書類や何やらを纏めていたのだ。外から走行音が聞こえたので窓に駆け寄り、カーテンを開けた。わあ、自動車だ。となって、片付けを完全に忘れてしまっていた。 「言ってくれたおかげで思い出したよ。ありがとうベル」 「ええっ、じゃあ、片付けは終わっていないのかい」 「うん、そうだね」 「そんなあ」  少年――ベルはがっくりと肩を落とす。竦めたり落としたり忙しい肩だね。痛くなることとかないのかな。  床に広がる本を掻き分けるようにしながらベルは書庫から出て行く。このままにしておくわけにもいかないので、特別にこの私が片付けてやろう。  本を拾い、棚に戻す。拾って、戻す。拾って、積む。拾って、戻す。まだ拾う。  それにしても、こんなに必要なのだろうか。『建物の構造図鑑』ならまだしも、『かわいいフサオマキザルのイラスト集』なんて何に使うのだろう。私にはこの本の重要性が分からない。ベルはサルが好きなのだろうか。 「リゼー、リゼー」 「はあーい、何かなー」  本を拾い、棚に戻す。拾って、積む。黒縁眼鏡を発掘してよけておく。そしてまた本を拾う。 「事務所全然片付いてないよー」 「自分でやればいいんじゃないかな。私は本を戻しているから」 「ええー」  小さな舌打ちが聞こえた。たまには自分で片付ければいいんだ。いつもいつも私に任せて全くもう! 何もできないダメダメな大人になってもいいのか、ベル。そこは君の仕事場なのだから君が掃除したって何らおかしいことはないのだよ。  わざとらしい「ちぇえーっ!」という舌打ちですらない音が聞こえてきた。あまり彼を甘やかすのもよくない。ついつい世話を焼いてしまうけれど、彼のためにならない。  数分後。本をようやく元に戻して私は一息つく。満足満足。 「リゼ、本の片付け終わった?」  ひょこっとベルが書庫に顔を出した。髪にはまだ埃が被っている。 「終わったよ」 「じゃあこっちの掃除もお願いできるかな」 「だから自分でやりなよ。私は外の掃き掃除してくるからさ。はい、眼鏡どうぞ」 「むう。ありがとう……」  書庫の入口でしょんぼりしているベルの横を過ぎて、玄関へ向かう。そこら中に散らばる資料や書類を踏まないように、慎重に。  玄関脇の箒を手に取り、ドアを開けると不快な音がした。ここのドアはどうやら立て付けが悪いらしい。それと錆が相まって不協和音を奏でている。後で大家さんに文句を言っておこう。  玄関の前を掃く。外に張り出しているわけでもなく、中にある廊下のはずなのにこんなに土埃が舞うなんて。油断していた。  向かいの部屋の扉には『起こさないでください』と札が掛かっていた。ホテルじゃないのだから、と思うけれど、いつもこの札が掛かっている。なぜなのだろう。それに、実はお向かいさんの姿を見たことがない。どこで何をしている人なのか。私達みたいに自営業なのだろうか。  だいたいいいだろうというところで掃き掃除を終え、私は扉に向き直った。曲がっていた看板を真っ直ぐにして大げさなくらい頷く。うんうん、看板は大事だよね。お客様がやって来て最初に見るのは看板なんだから。 『探偵事務所・歯車堂  私立探偵・ベルンハルトが貴方のお悩み解決します!』  よし、完璧だ。今日も一日頑張ろう。
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