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救われた世界?
そこはまるで、神殿のようだ。
白く、清らかな壁。
消毒薬と仄かに死の香りが立ち込める。
「……」
『千鶴』は、座ること無く窓の外を眺めていた。
年齢より幾分も若々しかったその顔も、疲労と絶望ですっかり窶れている。
「ねぇ、琉生。桜が咲いたわよ」
彼女は覚えていた。
……息子の琉生が、ここに運ばれた日を。
まだまだ身を切るような風の吹く、一月の末である。
―――自殺未遂。
警察からの電話を聞いて、到底信じることが出来なかった。
『あの子が自殺?』
『しかも駅、飛び込み?』
『なんで……』
『死なないで』
月並みな言葉が頭を巡り、彼女を恐怖と混乱に陥れる。
不思議なモノで、心がそんな状態であるのに。千鶴はすぐさま病院へ駆けつけ、警察から話を聞いた。
……飛び込もうとした瞬間。
『誰か』が彼の腕を、強く引いたのだ。
その反動で、後頭部強打。
さらに腕の負傷。
擦り傷などの軽傷。
そう、息子は助かった。
『助けてくれた人がね、分からないんですよ』
困った顔で、警察官は零す。
―――それから三ヶ月弱。
彼女の息子は、目を覚まさない。
『怪我は関係ありません。脳波にも特に異常は……』
首を捻る医者たちを、彼女はただ茫然と眺めていた。
どうしてだろう、と皆が頭を悩ませる。
脳に損傷があったのでは? と医療者達は躍起になって、検査を重ねた。
千鶴はやはり、それをぼんやり眺めていたのだ。
(目覚めたく、ないのかも)
彼女はそっとそう思った。
自らの生命を投げ出してまで、離れたかったこの世界に戻りたくないのか、と。
……それはとても、哀しいことだ。
「琉生、また今日も花が届いたわ」
千鶴は呟く。
息子に聞かせているようで、自身に語り掛けていた。
「琉生。ほら、桜の花よ」
小さな枝が、花瓶に刺さっている。
とても無骨に、ただ『射してあるだけ』のように。
「また会えなかったわねぇ。お花をくれる人」
こっそりと、いつの間にか生けてある花々。
琉生が入院してから、一ヶ月後。
数日に一回は届いた。
「ねぇもしかして……」
「……っ……」
「え?」
小さな呻き声。
まるで虫の羽音のように、弱々しい。
反射的に振り返った千鶴。
その目には、まるで目覚める前の赤子がむずかるような。
そんな声を出す、我が息子の姿。
「琉生っ!? 琉生! 琉生ーっ!」
狂ったように、息子に縋り付く。
ナースコールなんて、思考の片隅にもなかった。
ただ、やはり狂ったように。
「琉生? ねぇ琉生! ……先生っ、誰か、誰か来てぇぇぇっ!」
と叫んだ―――。
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