―BAKU―

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「…………君の『悪夢』を買い取らせて頂くよ。 眠りに限った事ではない………。 ほら………目覚めている時でもあるだろう? に直面する事が。 例えば、君………… 先日、彼女にフラれたばかりだね? 初めて出来た彼女との別れは、それはそれは 身を裂かれるような痛みが伴うものだっただろう。 夢も(うつつ)も構わない……… そうした、君の痛みや苦しみ………… 『悪夢』の全てを……… 私に買い取らせて欲しいんだ」 (…………何で、コイツ………… 俺がフラれた事まで知っているんだ………) 目の前の『伯爵』と名乗る男の胡散臭さと、 自分の素性の何処までを握られているか解らない気味の悪さに、思わず背筋がヒヤリとしてしまった。 そもそも『伯爵』を名乗る事からして胡散臭い。 GHQに財閥解体されて、どれだけ経つと思っているのだ。 単なる呼び名の類に過ぎないのかもしれないが、本物の伯爵である筈がない。 きっと………酔狂な金持ちが、こうして貧乏人をからかって弄んでいるのだろう。 正直、俺はそう思った。 如何にも高そうな、高級感溢れる仕立ての椅子は、さながら玉座のよう。 そんな高見から見下ろされた俺が、卑屈にならずにいるのは難しい。 「…………悪夢…………? そんなもん買い取って、どうすんだよ。 ………そもそも、そんなものを、どうやって買い取るんだ? 脳ミソから、チューチュー吸い出すのか?」 相手を小馬鹿にしたような、ひねくれた口調で挑発するも、相手は嘘でも『伯爵』を名乗る男。 庶民の遠吠えには動じぬだけの、ゆとりがあった。 「…………詳しい方法を君が知る必要はない。 例え話した所で、到底、理解し得ぬものだろう。 君が答えるのは『はい』か『いいえ』だけで良い」 悠然と構えるその姿勢には、確かに高貴さがあったが、同時に嫌みが無い程、自然な傲慢さもあった。 「………1つ………言い忘れていたが……… 我々が買い取るのは、()くまで苦しみの 『感覚』だけであって、起こった出来事 そのものを変える事は出来ない。 つまり………… 君の失恋の痛みは買い取るが、 失恋の事実そのものは、 どうする事も出来ないという事だ」 (―――――解っているよ、そんな事!) フラれただの、失恋だの、目の前のイケメンの口から繰り返し語られると、平々凡々な俺は 余計に卑屈になってしまう。 伯爵の(かたわ)らにいた黒服が、静かに歩み寄り、 思わずビクッとしてしまう。 心の悪態が丸聞こえだったか―――――!? 一瞬、そんな疑念を抱いたが、どうやら違ったらしい。 目の前に映画やドラマでしか見た事がない、 札束のギッシリ詰まったアタッシュケースが置かれる。 現実味の無いシチュエーションに驚きつつも、思わず表情筋は弛み、自然と手が伸びる。 ―――――――クスッ。 穏やかに笑む伯爵の失笑に、俺は我に返る。 「…………良いのかな? 『悪夢には危機への対処法を培う役割がある』 ―――――これは、私の友人の言葉だ。 平穏な日常を生きる君達が、時折、悪夢を見る事により………… 現実の恐怖に直面した時、少しでも冷静に対処出来るよう無意識に訓練しているのだそうだよ。 ―――――まぁ、彼の自説だけどね。 仮に、彼の言葉に一理あるのだとしたら―― 君は貴重な経験を手放す事になるのだけれど、お分かりかな?」 「―――――ご親切に、どうも。 ……………で? 結局の所、アンタは俺から悪夢を買いたいのか?買いたくないのか? ……………どっちなんだ?」 一瞬、伯爵の()が、妖しく光ったような気がした。 「……………そりゃあ…………、 今すぐにでも欲しいさ。 喉から手が出る程に、ね―――――」 ――――――気味の悪い奴だ。 どう見ても俺より圧倒的に見目麗しいというのに、その整った容姿に余計、寒気がする。 お貴族様然とした傲慢さも、妖魔然とした 薄気味悪さも……… どうにも好きになれなかった。 何故、悪夢なんぞ求めるのか、全く理解出来ない。 だが、人生における悪夢全般……… それこそ、本当の悪夢から、まで全てを買い取ってくれるというのなら、 それ程、有り難い事はない。 家賃の支払いすら遅れがちな貧乏学生である 俺にとっては願ってもない話。 むしろ『苦しみ』なんてものは、こちらが金を払ってでも消し去りたいものなのだから。 ―――――もう、ヤケクソだ。 全部、金に替えてやる! 金だけは、俺を裏切らない―――!!! ―――――そう、心の中で決意した俺は、 伯爵様に言い放った。 「…………いいぜ? 売っ払ってやるよ。 俺の痛みも、苦しみも、 悪夢も…………… ―――――――全部な!!!」 「『契約』成立だ―――――」 目の前の『伯爵』の整った薄い唇が………… 三日月型に切り上がった。
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