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Ⅰ
山下くんが戻ってこない。
今日が経費締めだってことはわかってるはず。今朝の朝礼で「経費精算残っている人は17時までに出してください」って言ったときに目があった。数日前に休憩室で会ったとき、経費精算が出てないことを言ったら、月初から溜めてしまっていると謝っていた。
営業職はクライアントあっての仕事だから、戻るのが遅くなるのはよくあること。でも山下くんの請求書類がないと営業2部の経費精算が経理に出せない。
「亜美ちゃん、これ間に合う?」
5分ほど前に戻ってきた厚木さんがタクシーの領収書をつけた経費精算用紙を持ってきた。今日の日付だ。
「ラッキーですね、本当はだめです」
「ラッキィーサンキュゥー」
変なリズムで言った厚木さんから書類を受け取った。
「この経費が返ってきたら飯奢るからデートしよ!」
「経費処理はしますがデートはしません」
書類だけ受け取って、あとは山下くんの処理を入力して送るだけになっているエクセル表に入力した。
「つれないねぇ、俺、学生時代モテたんだけどなあ」
「そういう季節ってありますよね、人生に」
言いながら上書きをして時計を見た。17時50分。
「なに?誰か帰ってこないの?」
PCの画面を覗き込んでくる。
「山下くんがまだです」
体を起こした厚木さんは、自分のスマホを出して
「Jフーズか。あそこ担当がルーズだからなあ」
と小さく溜息をついた。
個人集計シートを見ると山下くんのところだけが『0』になっている。
山下くんと同じ2年目の清水くんは交通費の他に自己啓発関係の請求も出している。山下くんも同じくらいの金額を持っているんだろうなあ。
「山下にはちゃんとマメに出せって言っておくわ」
そう言って立ち上がった厚木さんが壁の時計を見てポツンと呟いた、
「サーティオーバー」
その声にドキッとしてしまった。
「誰か山下から連絡受けてないか?」
フロアに向かって言った厚木さんの声に、数人の営業マンが口々に「知りませーん」と言いながら首を振っている。
「アミちゃん、もうちょいいいか?今度デートで飯奢るから」
そう言った厚木さんに
「残業はいいけどデートはしません。社食でステーキ定食をお願いします」
と応えたとき、デスクの上の電話が鳴った。
終業時間を告げるメッセージに重なるように、『◯◯警察です』という声がスピーカーから聞こえた。
警察? 一瞬躊躇した私の横から手が伸び、厚木さんが受話器をとる。
「はい、オゾノ・パブリシティです」
そう言ったあとは、ただ
「はい、はい」
と繰り返している厚木さんがとっているメモに、『白石外科』と記入されていた。
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