初心に戻って

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初心に戻って

「松本主任! お疲れ様でした、お先に失礼しますっ」 「はーい、おつかれさん〜」 午後初めの宴会を終え、アルバイトの女性が退社した。 俺も頼まれていた洗い物をようやく終え、フゥと息をつく。 今日だけで500もの汁椀や皿を毎日洗うなんてとんでもない労働だ。 宴会担当だけで50人近くいるのも納得する。 「松本さんー、もう梅の間も片付けに入っていいわよね?」 「ああ、冨樫に指示を出してる。悪いが早見、ついでに社長に挨拶しといて」 「はいよー」 早見さんが荷台用エレベーターに乗り込むと、人に反応して自動でドアが閉まり始める。 宴会現場には入社当時、子供が秘密基地を見つけた時のようなちょっとした感動を覚えた。 俺にもまだ好奇心というのはあったようだ。 「優斗、コーヒー飲んでいいぞ」 「……ありがとうございます」 「寒くないか?」 「はい」 俺を気にしてわざわざ宴会ヘルプに回してくれた松本さんの優しさには頭が上がらない。 ここにいるとよく分かったが、松本さんは自分より歳上の社員達にも遠慮がない。 悪く言えば悪人のように聞こえるが、目上という立場が苦手な俺からすれば尊敬に値する。 「松本さんは……強いですよね。歳上の社員だって多いのに堂々としていて」 もちろんそれが不満な社員もいる。 40代くらいの契約社員らしい男が松本さんに対する愚痴を零している姿も先ほど見てしまった。 生意気だのコネ入社だの、言いたい放題だ。 だが、人間関係で松本さんが落ち込んでいる姿はほとんど見たことがない。 あるとすれば、陸や俺と何かあった時で。 「一応、宴会もマネージャーだからな。遠慮してたら仕事が回らないだろ?」 「……でも、みんな何も知らないのに言いたい放題で。松本さんの仕事量の方が圧倒的に多いはずなのに、悔しい……です」 「……」 自分に言われたことじゃなくても、松本さんへの不満を聞きたくはなかった。 どれだけ苦労しているのか何も知らないじゃないか。 そう、直接言えていたら。 「優斗」 「はい、ん……」 顔を上げた瞬間に唇が重なり、背をそっとなでられた。 誰もいなかったとはいえ、場所が場所だけに俺の心臓が飛び出るかと思った。 「っ……! なに、してんですかっ」 「いやぁ、可愛くてつい」 「どう……して、そんなにヘラヘラしてられるんですか。腹が立ったりしませんか、生意気とか言われて……普通ムカつきますよ」 俺は何をムキになっているんだろうか。 松本さんが一瞬、切なげな目を見せた気がした。 何に対してなのか、誰を思ってなのかは一瞬すぎて分からなかった。 「生意気なのはお前の方だ。小学生が高校生に向かっていつも楯突くからなぁ」 「…………それ、気に入ってません? 社会人にさえなれば、俺も松本さんも大して変わりませんから」 「ほーら出た、それだ。"そいつ"に教えてやれ。生意気ってのは椎名優斗の事だっつって」 「恩を仇で返すって言葉知ってますか? フォローした俺の優しさを返してください」 腹を抱えて笑い出す松本さんに調子が狂い、用事もないのに台拭きを手に取った。 「あ……洗った皿、どこに戻せばいいですかっ」 「バカ、皿は台拭きで拭くなよ。とりあえずそこの台上で良い、食器用はこっちな」 「っ、分かりました」 おかしい。 どうして日に日に緊張が増していくんだよ。 普通なら慣れていくだろ。 貴也と久しぶりに会った時だって、俺はそんなに緊張しなかったのに。 「……さっきの、正直嬉しかったよ」 「! ……何が、でしょう」 「俺は他人からの悪口も愚痴もまともに気にしたことがないんだけど、優斗が真剣にムカついたって顔してんのはさすがにツボだな」 「だ、だって……好きな人の悪口を言われて平気な人って、おかしいじゃないですか」 「あぁ、そうだな。つっても、生きてりゃ何か悪いことも言われんだろ。寝りゃあ忘れる」 松本さんのこの不思議なほど前向きな性格は、きっと清水さんが影響している。 他人の評価よりも自身の志。 やっぱり、かっこいいんだよな……
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