初心に戻って

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結局、陸は通話中に寝落ちしてしまい、松本さんがやれやれと小夜さんに挨拶をしていた。 子供の好奇心はどこまで広がっていくのか気にはなるが、過保護になるなと松本さんに言われた手前難しい。 「おはよう、椎名君」 「おはようございます、佐々木さん」 翌日、松本さんとは別に出勤して事務所のパソコンに触れた。 仕事は嫌いだ。 だが今日は少し気分が軽い。 それも、小さな天使の訪れのおかげか。 「椎名、はよ!」 「おはよう。……やっぱり変だな」 「え?」 スーツ姿の浅木が隣の席に座ってきた。 ずっと茶髪だった男が突然金髪にしていると、もはや誰か分からない。 「浅木……だよな?」 「え、そんなに!? どう見ても浅木くん! 可愛い顔してるっしょ!」 「…………」 可愛い……? いや、確かに女顔ではあるが。 「なんかさぁ、昨日散歩中に陸くんに会ったんだよ。夢だけど」 「お前ほんと陸好きだよな……」 「あんな無邪気に"しゅんた!"とか言われて何ともない奴いないって」 「気持ちは……分かるけど。でも、子育ては思っていたよりも難しいというか大変というか」 まさか20代前半で子育てを経験するなんてな。 もし陸が俺の子供だったとしたら、16歳で初めて親になったことになる。 なんと言うか……複雑だ。 「椎名君ー、陸君が来たよ」 「あ、はい!」 フロントの方から顔を出した佐々木さんに返事をして立ち上がった時、事務所のドアがバンッと音を立てて開けられた。 「ゆうしゃん!」 「わっ」 抱きついてきた陸に驚きが隠せず、加藤課長の席へと目を向ける。 「す、すいません」 「ああ、良いですよ。入場料無料で案内済みです」 「……へ」 普段、無口な加藤課長が笑顔で冗談を言った。 なんだこのホワイト会社は…… 「よ、椎ちゃん。陸坊の暴走は止められなかったわ、ははは!」 「谷口さん……」 自由すぎる陸は浅木を見つけると「しゅんただ!」と駆け寄った。 松本さんの子供だと認識している従業員達は微笑ましそうに陸を見てくれて、内心胸をなで下ろす。 「しゅんたぁ、きんきらきんっ」 「陸しゃんかわいいなぁ。プリンみたいなほっぺ、美味そ〜」 「ぷにぷにしてるの」 「してるねえ。これは何?」 「パプキン! だいじぃ」 職場に粘土で作ったパンプキンを持ってきたらしい。 思わず抱きしめて頬ずりしたくなる可愛さだが、俺と松本さんの関係はほとんど知られていない。 さすがに俺が突然陸を抱きしめたりしたら、それこそ墓穴を掘る事になる。 あくまで平常心で…… 「ゆしゃん、ゆきネコといっしょとりたい!」 「あ、昨日言ってたやつ?」 「ゆき猫ちゃんなら今はロビーにいるぞ。椎ちゃん、写真撮ってやれ」 「え……でも、良いんですか」 仕事中にそんなこと、と生真面目に考えていれば加藤課長が「椎名君」と呼んできた。 「はいっ」 「営業本部には秘密だよ」 「…………ありがとう、ございます」 一体、松本さんは裏でどういった賄賂を行ったのか。 そんな思い込みをする俺が馬鹿なのか。 心の広い課長に頭を下げ、陸を連れてロビーへと向かった。
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