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秋房は重大な告白をした。
「お腹にお父さんの子供がいるの」
秘密の共有は普通、人と人の距離を近くするものだが、この場合は逆の作用が働いた。俺は秋房を、ファストフード店で見つけたときより、入学したばかりの頃に廊下で見つけたときよりも遠くに感じていた。
秋房の声は頭の中に直接送り込まれているかのように、俺の中で朗々と響いた。
「お父さんとお母さんが出会ったのは十六の頃だったけれど、私がその歳になったとき、お前以上の美人は見たことがないってお父さんが言った。そして私のお父さんは、意気地なしじゃなかった。お父さんとお母さんはしばらく喧嘩してた」
「……それで家に帰りづらかったのか?」
やっとのことでそれだけを言った。秋房は首を横に振った。
「ある日家に帰ったら首吊り死体が二つあった。もう世界も終わるから、喧嘩するのはやめにしたんだって」
気づけば俺達は秋房の家の前に辿り着いていた。その家は、言い知れない淀んだ空気を放っている。俺は直感した。秋房の両親はまだこの家の中にいて、今日も娘の帰りを待っている。まるで理想的な家庭だが、徐々に腐敗が進んでいく死体と同じ部屋で夜を過ごし、食事をとることはやがて秋房にとって耐え難くなった。数日前に告知されたお腹の中の生命が自分の体を食い破って這い出してくる悪夢も見るようになる。
俺のように近づいてくる人間の好意(あるいは悪意)にしがみついて逃避生活を続けたが、それも長くは続かない。
その、秋房の苦しみがどんなものだったとしても、俺が手を差し伸べるまでもなく、それは終わるのだ。
「言っちゃった。誰にも秘密にしておくつもりだったのに」
秋房は少し照れた様子で両脚の踵を上げた。
「秘密を抱えておくことは大きなストレスになるって、テレビで言ってた」と俺は適当な相槌を打った。
それだけでなく、何かを言おうとした。言おうとしていたと思う。
俺はいつの間にか腹部から流血していた。秋房がスクールバッグから出した包丁で刺したことは明白だった。倒れた俺のことを秋房は門の中に運ぶ。門扉越しに近所に住んでいるのだろう、老人が秋房に声をかける。
「穂乃香ちゃん、学校はお休み?」
「ええもうずっと」
秋房は白い頬を持ち上げて微笑む。俺は門の内側にもたれて、今にも息耐えようとしていた。目線を上げると秋房の顔があった。汗が一粒、秋房の頬を垂れて俺に落ちる。
「困ったな。夏が来たら草壁は腐っちゃうよね」
「大丈夫だよ」と俺は答えて励ましてやりたい、秋房を笑顔にしてやりたいと思うけれど、そんなこと必要ない。
俺を見下ろす秋房の顔には、既に花が咲いたような満面の笑みが浮かんでいた。
バスが止まっていてよかった、と俺は思う。最後にみる景色がこの笑顔なら、悔いはない。閉じた瞳の裏に思い浮かべるのは、油で滑るファストフード店のカウンターに肘を置く秋房の姿だ。
「蟹ってありますか?」と秋房は尋ねる。
「は?」と訊き返す店員。
店員は秋房の顔をまだじっくりと見ていない。俺は既に瞼を閉じたけれど鮮明に見える。商店街には出鱈目な警報が鳴り響いている。晴れ渡る空を暗闇が裂いて、巨大な隕石が地球に大きな影を落とし、秋房の憂鬱を晴らしていく。
俺は自分の恋が、とっても正しかったことを知った。要するに、神様のそれと変わらない。
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