1.十一月の出会い

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1.十一月の出会い

 駅前の古びた看板に目が止まった。煤けた雑居ビルの前、錆びついたその看板には、「掃除、洗濯、その他家事等承ります」と書かれている。普段なら何気なく通り過ぎてしまう場所なのに、正(ただし)が今日そこで立ち止まったのには訳がある。今まさに「それ」を必要としていたからだ。  看板の下に置かれたチラシを持ち帰り、家に戻ってから開いた。わら半紙にボールペンの細い字が踊る、古めかしいチラシだ。細かい字でびっしりと、業者に家事代行を依頼するメリットが書き連ねてある。しかし、具体的な値段はどこにも記載されていない。チラシの最後に、「ご用命の際は、下記番号にお電話ください」と書いてあるだけだ。あらゆることが便利で親切になっていく時代だというのに、ここの会社だけは古い時代に取り残されたままなのかもしれない。しかしそれでも正は、チラシに書かれた番号に電話をかけた。そのくらい困り果てているのだ。できることなら、今すぐにでも手を借りたいほどだった。 「はい、家事代行の山際(やまぎわ)商店です」  電話の向こうから、年配の女性の声が聞こえてきた。真面目で神経質といった印象の声だ。  正がチラシを見て電話したことを伝えると、女性は早速契約についての説明を始めた。 「六ヶ月契約と一年契約がございますが、どちらにいたしますか」  この手の商売につきものの、お試し価格だの、最初の一ヶ月は無料だのという話は一切ない。正は迷わず「六ヶ月契約でお願いします」と答えた。 「一年契約のほうが一ヶ月あたりの金額に換算するとお得になりますが、よろしいでしょうか」 「はい、構いません。六ヶ月契約でお願いします」 「かしこまりました。詳しい契約内容を記載した契約書を後日郵送いたしますので、お名前とご住所、お電話番号を頂戴できますか」  電話口で聞かれるまま、名前と住所、そして電話番号を教えた。それからまた長々とした説明を聞き、そろそろ電話が終わるかという頃になって、正は大事なことを思い出した。お決まりの言葉を述べて電話を切ろうとしている女性に、慌てて質問する。 「それで、お手伝いさんはいつから来るんですか。とても困っているので、できるだけ早く来てほしいんですが……」  正の慌てように対して、女性はあくまで落ち着いた声で答えた。 「同意書を弊社にお送りいただいてからの手配となります。ですから、早くても再来週にはなるかと」 「再来週……」 「お急ぎでしたら、早めに同意書を返送していただくことをお勧めいたします」  『再来週』という言葉に呆然とする正をよそに、女性は型どおりの挨拶をして今度こそ電話を切った。  早くても、再来週。女性の言葉を思い出し、正は途方に暮れた。それまでは、この状況を自分一人でなんとかしなければならない。  正は今、一人暮らしだった。結婚はしていない。子供もいない。つい最近まで、会社の独身寮に住んでいた。しかし会社を定年退職し、寮からも出ることになったため、今は会社近くで見つけた古い借家に住んでいる。  今年で六十二歳になる正は、六十歳で退職していった同期たちよりも、二年間長く会社に残った。残してもらえた、といったほうが正しかったのかもしれない。大学を卒業してすぐに就職し、四十年間、会社のために尽くしてきた。六十歳になったとき、まだ働き続けてほしいと言われ、社に残った。それまでと同じ仕事というわけにはいかなかったが、この会社に居続けることができるなら構わなかった。  しかし今年、ついにこれ以上雇い続けることはできないと通告された。無理もないことだ。この二年の間に、経営者が変わった。すると経営方針が変わり、仕事の進め方が変わり、職場の雰囲気も大きく変わってしまった。正はもう退職するしかないことに気がついていた。  寮を出て一人で暮らすことになったが、社員食堂はもう使えない。社内にあった購買部も使えない。背広を着る必要もなくなり、毎朝の通勤も、毎夜の残業もなくなった。  それまでとは一変した自分の生活に、正は動揺を隠せなかった。愕然としていた、といってもいい。  それまでの正は、仕事がすべてだった。生活のすべてが仕事のためにあった。それを意識する間もないくらい、仕事と生活は常に一体のものだった。  だというのに、今自分が置かれている現実は何だろう。  今の正には何も残されていなかった。会社での肩書きや人脈を失っただけではない。人生のすべてを失ったように思えてならなかった。体力や気力さえ含めた、人生のすべてを。  ずっと一人暮らしだったのだ、日々の家事くらいこれからもこなせると思っていた。ところが今の正は急激に心身が衰え、それさえも難しくなっていた。そこで、偶然目にした家事代行のチラシを頼みの綱にしたのである。  そんな経緯だったから、『再来週』という言葉は正の中で重く響いた。  再来週。とにかく再来週までの辛抱だ。  正は自分にそう言い聞かせると、夕飯を作るために何度も深呼吸し、やっとの思いで立ち上がった。 *  そうして、待ちに待った再来週がやってきた。  毎日苦しい思いで寝起きしていた正も、今日ばかりは明るい気持ちで目が覚めた。朝食の白米と梅干しをかき込むと、そわそわと落ち着かない気持ちでその時を待った。  お手伝いさんは八時に来ることになっているが、それまでまだあと四十分はあった。思えば会社を辞めて以来、誰かに会うのは初めてかもしれない。そう思うくらい、正は外の世界との関わりがなくなっていた。  玄関のチャイムがゆっくりと、ためらいがちに押され、正はすかさず玄関に走った。勢いよく開け放ちたい気持ちを抑え、落ち着いてドアを開く。  ドアの向こうには、若い女性が控えめにたたずんでいた。正が思っていたよりも、ずっと若い。二十代前半、いやむしろ二十歳そこそこといったところだろうか。 「おはようございます。山際商店の一谷(いちや)と申します。家事代行のご依頼を受けて参りました」  一谷と名乗った女性は、正に向けて丁寧に頭を下げた。高く透き通った声だが、どこか遠慮がちで自信のなさそうな声だった。  彼女は制服と思われる、白いブラウスと丈の長いグレーのジャンパースカートを身につけている。ほっそりとした体を包むジャンパースカートのなめらかなライン。新品のブラウスの真っ白な襟に、肌の白さが際立つ細い首筋。長い髪を頭の上でひとつにまとめて、白い三角巾をかぶっていた。その姿を見た瞬間、正はめまいのような感覚を覚えた。真っ暗なトンネルを抜けて、急に明るい風景を目にしたときの、あの感覚に似ている。そう、まぶしいのだ。老いを感じ始めた今の正にとって、若々しい彼女の姿はとてもまぶしかった。 「……あの……こちらは越野(こしの)様のお宅で間違いありませんか……?」  何も言わずに呆然としている正を見て、不安になったのだろう。一谷は言いにくそうに声を潜めて尋ねた。 「あ……は、はい。そうです」  正はようやく我に返り、一谷を中に通した。若い彼女に見とれていた自分が、少しだけ恥ずかしくなった。  一谷に依頼した内容は、家の掃除と洗濯、それから昼食の準備だった。午前の間に掃除と洗濯を済ませ、正に昼食を出してから引き上げることになっている。総菜は少し多めに作ってもらい、夕食の時に残りを食べるつもりでいた。  正はリビングのイスに腰掛け、掃除をする一谷の、自信のなさそうな背中を見ていた。自信がなさそうといっても、手際が悪いわけではない。手早く、しかし細かいところまで丁寧に行う姿に、正は素直に感心した。この丁寧な仕事ぶりなら、きっと多くの人に信頼されているに違いない。だがその一方で、一谷の後ろ姿には自信が感じられない。スッと伸びているはずの背筋から感じられるのは、何かへの不安やおそればかりだ。  何をそんなにおそれているのだろうと、正は不思議に思った。まだ若く、目立つところはないものの礼儀正しく真面目な女性だ。もっと自信を持って胸を張っていれば、その楚々とした美しさも、もっと際立つだろうに。 「越野さん。これからお昼ご飯を作りますが、どんなものがいいですか?」  一谷に声をかけられ、正ははっとして顔を上げた。彼女の姿に見入っていた自分に気づき、またしても恥ずかしい気持ちになる。 「できれば和食でお願いします。冷蔵庫にあるものを、適当に使ってください」 「わかりました。お二人分で大丈夫ですか?」 「二人分?」  正は思わず聞き返してしまった。一人暮らしなのだから、一人分あれば十分だ。  すると正が怒ったと思ったのか、一谷は慌てて頭を下げた。 「申し訳ございません。越野さんと、奥様の分で二人分かと思ったのですが……」  正は目を見張った。一谷は腰から頭の先まで、すうっと一本につながるような美しい礼をしていた。急に謝られたことよりも、その美しい動きの方に、正の視線は釘付けになってしまった。 「……お子様の分も必要ですよね。お子様は何人……、あの、越野さん?」 「あ、はい、すみません……一人分でいいんです。私は独身ですから」  さっきから自分は彼女に見とれてばかりだ。正は気まずく思いながら、少し上擦った声で答えた。その声の調子に、彼女が肩を震わせる。まだ怒っていると思ったのかもしれない。 「お時間をとらせてしまい、申し訳ございません。すぐに取りかかります」  一谷はもう一度頭を下げると、やや早足で台所へと向かった。正は思わずイスから立ち上がってしまったが、彼女を追いかけることはしなかった。  申し訳ないのはこちらのほうだ、と正は思った。正の年齢ならば、結婚をしているのが普通なのだから。一谷がそういう思い込みをするのも当然だった。正が最初に事情を説明しなかったせいで話が行き違ってしまったのだから、申し訳ないと思うのはこちらのほうだ。  正はリビングのイスに座り直し、一谷が台所から出てくるのを待った。  それにしても、と正は何度も思い返してしまう。一谷のあの美しいお辞儀の仕方。ほんの数秒のことだったのに、すっかりまぶたの裏に焼き付いて離れなかった。先ほどの光景を何度も何度も頭に浮かべ、その度に正は、何かの良い物の片端を手にしたように幸せな気分になるのだった。  やがて昼食を作り終えた一谷は、『家事代行完了報告書』と書かれた紙を正に渡した。 「本日ご依頼の作業はすべて完了いたしましたので、こちらに確認のサインをお願いします」 「わかりました」  正は紙を受け取ると、右下の細い空欄に『越野』と書いた。彼女に渡そうと用紙を差し出したとき、ふと『担当者名』の欄に目が止まった。 「一谷、りこさん? それとも、まりこさん、ですか?」  『りこ』という二文字が、正には不思議なものに見えた。『まりこ』の『ま』が抜けてしまったのだろうか。そんな疑問が、つい口をついて出てしまった。 「……一谷りこ、です」  一谷はうつむき、小さく口を動かしてそう答えた。その様子が悲しんでいるように見え、正は内心慌てた。自分はなんて失礼なことを言ってしまったのだろう。人の名前を見て、こんな風に疑うなんて。 「すみません。私くらいの歳では見かけないお名前だったので、少し驚いてしまいました。とてもかわいらしいお名前ですね」 「……いえ……その、お気になさらず……」  褒めることでこの場を取り繕ったつもりだったが、一谷はますます悲しげ顔をして下を向いた。しかし彼女もこのままではまずいと感じているのか、小さな声で、何かを言い訳するような言葉を絞り出す。 「かわいらしいかどうかは、わかりませんが……父がつけた名前で、由来もよくわかりませんので……」  父、という言葉を口にした瞬間、一谷の怯えは最高潮に達したように見えた。目の前には正しかいないのに、見えない何かに怯えるように、一瞬、背中がびくりと震える。 「余計な話で引き留めてすみません。そろそろ帰る時間ですよね。はい、確かにサインしましたよ」  一谷の怯えは見なかったことにして、正は何事もなかったかのように用紙を彼女に渡した。一谷はふっと小さく息をついて、何かから解放されたような顔をしていた。そして、数秒の後には事務的な顔つきに戻っている。 「ありがとうございます。それでは、また明日伺います。明日もよろしくお願いします」 「こちらこそ、よろしくお願いします」  正と一谷は互いに一礼し、玄関先で別れた。  パタン、と小さな音を立てて、玄関の扉が閉じられる。その音が消えた途端、家の中に重い静寂が戻ってきた。この家にはこんなに重苦しい空気が漂っていたのだと、正は今初めて気づいた。呼吸をするだけで、手足が重くなっていくような錯覚を覚える。  このままではいけない。急に焦りを感じた正は、思わず玄関の扉を開けた。スリッパから革靴に履き替えることさえもどかしく、つま先の部分だけを引っかけて外に出る。途端に、外の冷たい空気が顔を覆った。驚いて空を見上げると、そこにあるのは深い青色の空。風が強いために、真っ白な雲が絶えず移動している。  正はしばらく呆然と青い空を見上げていた。それからようやく足下に視線を移し、ゆっくりと表の路地へと踏み出す。一谷の姿はどこにもない。とっくの昔に行ってしまったのだろう。今頃は、駅前のあのさびれたビルの中かもしれない。正は、最初に家事代行のチラシを見つけた場所のことを思い出した。一谷のような若い女性に似つかわしくない、古ぼけた雑居ビルだった。しかしそれを言うなら、正の家だって古ぼけた借家だ。彼女のような若く美しい女性には似合わない。  そんなことをぼんやり考えていると、背後からガサガサと乾いた音が近づいてきた。正がぎょっとして振り返ると、そこにあるのは乾いた落ち葉だった。見れば風が吹く度に、近くの木々から赤や黄色の葉が落ちてくる。もう紅葉の季節なのだ。  正は目を細めて、色づいた木々を見上げた。絡み合った枝の隙間からのぞく、黄金色の日差しがまぶしい。正が会社を辞めたのは九月の末だった。あれからもう一ヶ月以上が経っている。風で巻き上がる落ち葉を見つめながら、正はその事実を今更のようにかみしめていた。
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