<第一話・地獄にて、転生>

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――ああ、あんな男だと知っていたならば!私は絶対に、姫様をこんな家に嫁入りなどさせなかった……!こんなことになるなら無理にでも攫って、私だけのものにしてしまえば良かった!!  私と姫様は――ひそかに愛し合っていた。接吻以上のことは何もできぬ、清く淡く、そして絶対に報われぬ恋ではあったが。  それでも身を引いたのは、どう足掻いても結ばれぬと知っていたのと同時に、格式ある家柄に嫁ぐことが最終的に彼女の幸せに繋がるはずだと信じたからに他ならない。そう。  夫となる男が。男女問わず美しい者を手当たり次第辱めては、人を人とも思えぬ拷問を強いる屑野郎だと知っていなければ! 「姫様!そこからお離れ下さい、姫様!!」  彼女が何を考えているかなど、手に取るようにわかる。  私の声に気づき、美しい姫はゆっくりと振り向いた。艶やかな黒髪がさらりと流れるのを目にする。こんな時でなければ見惚れてしまっていただろう。満月を背に立つその姿は、まるで天女のような神々しさだ。与えられた派手な赤い蝶の着物でさえ、彼女本来の美しさを引き立てるものでしかない。 「利明……」  あまり笑うことのない彼女が――ゆっくりと唇の端を持ち上げて、笑みを浮かべた。涙を浮かべたその顔は、とても幸せそうなものではなかったけれど。 「来てくれて、感謝する。お前と過ごした時間は……私の短い人生の中で唯一無二の宝だった。お前を愛することができたこと、お前に愛されたこと…生まれ変わっても私は、きっと忘れぬと誓うぞ」 「そのようなこと、仰らないでください…姫様…っ」 「もう遅いのだ、利明。……私は知ってしまったのだ。この世には…どんな悪霊や妖怪にも勝る、恐るべき存在がいるということを。人間ほどの魔物はこの世にはおらぬ。私は身を持ってそれを刻まれた。……この身はあの下衆に穢され、いずれあの下衆の血を引く子を産み落とすことになるだろう。……私にはそれが…どんな責め苦よりも耐え難いことなのだ……」  自分が知らぬところで、見ていないところで――どれほど彼女は苦しみ、地獄を見たことか。もはや想像することさえできない。  けれどいつも凛と前を向いて生きてきた彼女が、此処までのことを口にしたのだ。どれほど恐ろしい思いをしたか知れない。私は間違いなく、彼女を救うことが出来なかった。彼女をこんな形で――泣かせてしまうなんて。こんな日が一生来なければいいと、“産まれる前から”願っていたというのに。 「これが、私に出来る最期の抵抗。私に残された最期の手札。……許しておくれ、利明。……愛している」  伸ばした手は――宙を掻いた。  彼女は月に向かって一歩踏み出し――その艶やかな黒髪が軌跡を描くのを見せつけるようにして、飛んだ。数秒遅れて響く、骨と肉を潰れるような惨たらしい音。私は力なく、膝をつくことになった。  助かる筈がないのはわかっている。この国の医療技術はさほど進んでいない。この崖の高さでは即死も充分有り得るだろう。きっと骨も肉も砕け――彼女の美貌は全て踏み躙られてしまったに違いないのだ。この下が普通の森ならまだ木に引っかかって助かる見込みもあったのかもしれないが――この崖の真下が、商人も通る広い道になっていることは、周知の事実である。 「また……」  どうして、いつも駄目なのだろう。 「また私は……私は、あなたを救えなかった……!」  無様に地面を殴りつける家臣の男を、集まってきていた他の兵達はどのような気持ちで見ていたことだろう。  どうでも良かった。たとえこのまま流刑に処されても、不義の疑いで処刑されることになったとしても。 「どうしていつもあなたは無残に、運命に殺されなければならないのですか……我が主、クシル……!!」  届かない声を、こうして私は殺し続ける。  もう何百回になるかもわからぬ声を――何度でも。
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