<第一話・地獄にて、転生>

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<第一話・地獄にて、転生>

 長い黒髪が、とても美しい人だった。  流れるようなその色が、私は本当に好きで。何度その髪を褒めたか知れない。そのたびに、いつもあまり表情の変わらないあの人がほんの少し頬を染めて私に礼を言うのだ。 『ありがとう。……お前にそう言って貰えるのが、一番嬉しいな』  その時間が、私はとても好きだった。  たとえ名のある家の姫君と、彼女に使える家臣という――絶対に超えられる壁がそびえ立っているのだとしても。 「姫様!!」  私は叫ぶ。いつも物静かだ、と言われていたのはお互い様だ。普段から無口で、声を張り上げることなど殆どないという自覚ならあるのである。だから、こんなにも大声を出したのは――初めてのことなのかもしれない。少なくとも、“この世界に生まれて”からは、きっと。 「姫様!おやめください、姫様!!」  まるで、お伽草子に出てくるような美しい姫君。長い黒髪を風になびかせ、艶やかな赤い着物を纏った彼女は――崖の上で、こちらに背を向けて立っていた。いや、正確には一人、ではない。その身にもう一人宿していることは誰もが知るところであったのだから。まだ、さほどお腹は大きくなってはいなかったけれど。  ああ、どうしてこんな時に限って、見張りの兵はうたた寝なんぞしていたのか。確かにこの家を襲撃しようなどという愚か者はそうそういない。今は戦国の世でもなく、治世は安定している。だからといって、こっそり酒を飲んで居眠りなどとサボりが過ぎるのではないか。そんなことでどうして門兵が務まると思ったのか。  いや。今頃真っ青になって慈悲を願っているだろう馬鹿どものことなんぞどうでもいい。肝心なのは、見回りの兵達が仕事をサボっていたせいで、彼女が屋敷を抜け出してしまったことだ。確かに、屋敷の裏山もすべてこの家の土地ではある。熊も出ないような小さな山と森だ。こんなところに迷い込む者などいない、と誰もが油断していたのは否定できない。  でも、だからって――何故こんな時に限って、自分は屋敷を離れていたのか。  彼女の心痛を考えれば起こりうることだっただろう。家が決めた結婚。彼女の家もかなりの名家だったが、申し込んできた家はそれよりもさらに格式高い家柄だった。帝の遠い親戚。そうそう断れる相手でもない。ちらりと歌の会で見かけた姫の美しさに一目惚れしたのだそうだ。確かに、多少の贔屓目はあるにしても――私は人生の中で一度も彼女より美しい人を見たことがないし、そういうことがあるのも分からない話ではなかった。きっと、家を守る為に彼女も覚悟して嫁いできたことだろう。  ただその嫁ぎ先の男が――想像以上の下衆であったというだけで。
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