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第一章 「新学期」 1「でたぁ。美咲ちゃんの必殺回し蹴り」
「なんでやねん」
これほどあらゆるボケに対応できるツッコミが他にあるだろうか。
そんなことはない。ボケ方が違えば、ツッコミ方も違ってくると言う人もいるだろう。
確かに、ひとつのボケに対して、最高のツッコミは他にもある。と理解はできる。
けれど、プロの漫才師でもない高校生が、いつも完璧なツッコミが思い浮かぶわけがない。
最良でなくてもスベらない言葉。
オールマイティーなツッコミ。
それが「なんでやねん」だと思う。
しかしながら、使い方が違う状況では、とても笑っていられないこともある。
「もうあんたとはやってられへんわ」
「もうやめさせてもらうわ」
「もうええわ」
などと言って、締め括るわけにもいかない。
男は、日頃、めったに見せない真剣な表情を浮かべ、必死に学校の廊下を逃げ回っていた。
「なんでやねん」
「なんでもくそもないわ。ほんまに全校生徒の前でええ恥かかせてくれたわ。あたしがどんだけ恥ずかしい思いをしたか、まだわからへんのか。待てえ亮太」
「待ったら怒られるやん。いやや。翔ちゃん、伸ちゃん、助けてぇ」
藤崎亮太が二人に顔だけを向けた姿勢で逃げる。
窪塚翔太と鷺野伸一が二人の走行をじゃましないように廊下の壁に体を押しつけ、無理だと、無言で左右に小さく手を振った。
「つめたいなぁ」
亮太が情けない声を残して走り抜けた。
新堂美咲が亮太のすぐうしろを追いかけて通りすぎた。
美咲が一瞬向けた目の鋭さに、翔太と伸一が怯んだ。
美咲に見えたのか見えなかったのかは判断ができないけれど、とりあえず謝罪の意味で、二人が少し頭をさげた。
美咲の背中が見えると、翔太が亮太に向かって微かな声で言った。
「なんでこっちに来るんや。方向が間違ってるやろ」
伸一が十二センチほど見上げて翔太の言葉につけ足した。
「この先はF組の教室だから、目の前には壁が立ち塞がってどん詰まりだもんね。とうとう亮ちゃんも廊下の隅まで追い詰められましたな」
「万事休すだな。どんなに亮太が逃げても、スポーツ万能の美咲ちゃんから逃げられるわけがない。最初から捕まるとわかっているなら、逃げ出さずに素直に謝る方が身のためやのになあ。ほんまアホちゃう」
翔太が亮太の後ろ姿を眺めながら他人事のように言った。
伸一がはっと思い出したようにポケットに手を突っ込んでデジタルカメラを取り出した。
「シャッターチャンス」
伸一が言い残して二人に向かって駆けだした。
亮太は身長一六七センチで、美咲は身長一六三センチだ。この角度からでは亮太の顔が見えない。伸一は二人の顔が写るように廊下の左に寄って静かに近づいた。
「もう逃げられへんよ。なんであんなことになったん」
「なんでって、ついその場のノリで」
「ついやないやろ」
「でもウケたやんか」
「ウケたやないわ。まだ反省してへんのか」
「芸人はウケのためならなんでも」
「芸人ちゃう。ただの高校生やろ。もう頭に来た。覚悟しい」
美咲が亮太に引導を渡した。
伸一が素早く二人に近づき、左膝を廊下につけてしゃがみこんだ。
「でたぁ。美咲ちゃんの必殺回し蹴り」
伸一は拳を作り、心の中で叫んだ。
「ひいっ」
亮太が息を吸い込むような怯えた声をあげ、両腕で顔面をガードした。
この世で一番綺麗な回し蹴りや跳び蹴りをする人は誰か、と問われれば、迷わず美咲ちゃんの蹴り技を推薦したい。
美咲ちゃんの蹴り技に匹敵する人がいるとすれば、おそらく「昭和の女拳士」と言われたアクションスターくらいだろう。
父親が持っていたDVD映画を観た伸一は強く思っている。
伸一は芸術でも撮影するような気持ちでシャーターを押し続けた。
自らの頭上を越える美咲の右足は見事な九十度の円を描きながら顔面をガードしている亮太の両腕にヒットした。亮太が残り九十度の円を描くようにして廊下に倒れた。二人で百八十度の円を描く芸術作品だ。
伸一はシャッターチャンスを逃さなかった。
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