第二章 「亮太」 4「来て悪いか」

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第二章 「亮太」 4「来て悪いか」

 最後の授業が終わると、亮太は一目散に家へ帰った。  家の前まできて亮太は立ち止まった。  『本日休業』という看板がお店の前に掛けてある。胸騒ぎがして駆けだした。  亮太は玄関を入って叫んだ。 「母ちゃん、母ちゃん。どこだよ」 「お帰り」  母ちゃんの声が泣き声のように聞こえた。  亮太は台所へ行った。母ちゃんは台所のテーブルで俯せていた。 「母ちゃん」 「亮太、ごめんよ」  顔をあげた母ちゃんの目が真っ赤になっている。学校からはもう電話があったようだ。 「母ちゃんのせいじゃないよ。誰かの勘違いだから」 「誰かと言ったって、うちのお客さん以外には考えられないからね。なんとなく思いつく人もいるけど、はっきりした証拠があるわけじゃないから。それよりも学校で叱られたんじゃないの」 「僕は大丈夫。ちゃんと説明をしたから」 「そう。そんなに息を切らせて、喉が渇いたやろ。冷蔵庫にコッ、ジュースがあるから飲みなさい」 「わかった」 「夕食はなにを作ろうか。亮太の好きなハンバーグにしようか」 「僕はなんでもいいよ。いや、ハンバーグか、うれしいな」 「じゃあ腕に縒りをかけて美味しいのを作るからね」 「ありがと」  母ちゃんの沈んだ声に居たたまれなくて、亮太は自分の部屋へ逃げた。  傷ついて悲しそうな母ちゃんのそばにいると、涙が出そうになったからだ。母ちゃんにだけは絶対に涙を見せられない。亮太は父ちゃんが最後に言い残した言葉を思い出した。 「俺の女を泣かすなよ」 「男は女に涙を見せるもんじゃない。男なら笑え」 「亮太、母ちゃんを頼んだぞ」  亮太は机に雫をこぼして一言もらした。 「父ちゃん、ごめんよ」  亮太は机に俯せになったまま寝てしまった。    一時間後、亮太は階下から呼ぶ声で目を覚ました。  階段の途中で、台所がにぎやかなので疑問を持った。  女性同士ではしゃいでいるような声が聞こえた。 「だからあんまりチーズを入れたら出てくるんだって」 「やだあ、はな垂れ小僧みたいになっちゃった」 「いいわよ。それ亮太に食べさせればいいから」 「だよね。中から吹き出すくらいチーズが多いものね。おばさん、さえてるぅ」  亮太はエプロン姿で台所に立つ、二人の女性を見つめて言った。 「なにやってんの」  美咲が振り返って返事をする。 「なにって、見てわからへんの。料理に決まってるやんか」 「いやいや。そうじゃなくて、どうして美咲がいるの」 「来て悪いか」 「いやいやいや、そうじゃなくて」 「ねっ、おばさん。あたしが話したとおり、亮太はツッコミがへたでしょ。そこは悪いとか良いとかの問題じゃなくて、とツッコミを入れなきゃダメだよね」 「美咲ちゃんは頭がいいわねえ」  明子が左腕を美咲の右腕に軽くあてる。  どう見ても仲が良いとしか思えない。いつからそういう関係になったんだ。亮太が唖然として二人を眺めた。 「美咲ちゃんの話し言葉、ちょいちょい大阪弁が出たりするんやねぇ」 「あたし、大阪仕込みだからね」 「だからけっこう関西弁って言うか、大阪弁も出るんやねえ」 「小学校四年生まで大阪にいたからやけど、なんや最近こっちの言葉とごちゃ混ぜになって、言葉がミックスジュースみたいやわ」 「そう言われたら、そんな感じやねえ」 「だから変な関西弁がなおらへんねん」 「でたあ、『へんねん』、『おまへん』、『おまんねん』ってね」 「おばさん、語呂合わせがうまい」  亮太は微笑ましく二人を見つめた。 「そんなとこに立ってやんと、早よ手を洗っといで」  亮太は洗面所へ行って、手と顔を洗った。  食卓にはハンバーグ、ポテト、サラダ、湯通しをした野菜が色鮮やかに添えられた。  食事は美味しかった。それ以上に、美咲のおかげで我が家に明るさが取り戻された。  亮太は美咲の心遣いに感謝した。  食卓の後片付けが終わると、母ちゃんが美咲ちゃんを送るようにと言った。  母ちゃんが玄関口まできて、「優しい子だね」と小声で言ってくれた。  亮太はこくりとうなずいた。  外に出ると夜空の星がきれいだった。  亮太は美咲を自転車のうしろに乗せてペダルを踏んだ。 「今日はありがと」亮太がお礼を言うと、「うん」と短い返事が戻ってきた。  亮太のお腹をぎゅっと抱きしめ、美咲の頬が背中にくっつく感触が伝わってきた。  幸せの絶頂とはこういうものだと、亮太はうれしく思った。  しかしながら、幸せの絶頂とは、いつの世も誰かにやぶられるものだ。 「お前ら、仲がいいな」  突然声をかけられてハンドルを持つ手が揺れた。  すたすたと追い越していく三谷大輔の背中が見えた。 「見られちゃった」と美咲がくすくす笑い出した。  亮太も笑いながらペダルを踏んだ。  疑いが晴れた亮太は学校でも元気を取り戻した。  翌日、杜野先生が亮太を廊下に呼び出して、三谷君が職員室に入ってきて藤崎のことを弁護してくれたと打ち明けてくれた。 「藤崎と鷺野が一緒にいるところを見たし、二人と外で話をした。藤崎は夜の仕事など手伝ってない。そんなことはしてなかった」  東田教頭は三谷君に絶大なる信頼と期待を持っている。三谷君が言うなら、間違いなく、いたずらかいやがらせだろうと判断された。 「しかし、今後はあらぬ疑いをかけられることがないように気をつけて行動しなさい」と、杜野先生から注意をされた。  翌週には問題事の犯人が判明した。  六時頃、亮太が自宅に帰ると、翔太の父親と見覚えのある男がお店に来た。  亮太は扉の横に座り、耳を欹てた。  あの日の夜、団体客の中に翔太の父親がいた。翔太の父親は日頃から寡黙な人だから、目立たない人だと、母ちゃんから聞いたことがある。それはともかくとして、狭い町だから小さな事でも噂はすぐに広まる。翔太の父親が噂を耳にしたとき、顔見知りの常連客が母ちゃんにからんでいたのを思い出し、問い詰めたところ、相手がすんなり白状したという。ふられた腹いせに根も葉もないことで、それも子どもまで巻き込んでいやがらせをするとは卑怯者のすることだと厳しく叱った。母ちゃんは誤解が解ければもういいですからと事を大げさにしなかった。商売をしているからあまり根を持たれると、今後も商売に影響が出るからだ。  男は頭をさげてお店を出て行った。  翔太の父親が帰ろうとしたとき、「お茶でもどうですか」と明子が呼び止めた。  二人がカウンターを挟んで、父ちゃんの昔話を語り始めた。 「若い頃、まこっちゃんは手のつけられない乱暴者だった。学生の頃は私も避けてたからね」  女癖の悪さも話した。 「明ちゃんと結婚をしなければ、まこっちゃんはまともな人生を歩んでいなかったかもしれない。一番の転機は亮太君が生まれて、まこっちゃんが変わったことだ。あれほど家族思いの男になるとは、同級生の誰一人、想像もできなかっただろう」  翔太の父親は一時間の会話で帰った。  外まで見送りをしたあと、明子が戻ってきて清々しい表情で言った。 「亮太、ごめん。夕食の支度が遅くなったわ」 「まだお腹は減ってないから大丈夫だよ」 「じゃあ、簡単にラーメンでもいいかい」 「それでいいよ」  亮太は軽快に階段を登った。
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