第三章 「美咲」 1「なにがあったん」

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第三章 「美咲」 1「なにがあったん」

 美咲は自転車に乗り、校門を出た。  帰り道は途中で何度も自転車を停止させた。美咲は前カゴの荷物を整理する素振りをして、周りに気を配った。誰もあとをつけていないと判断をしてからペダルに力を入れた。細心の注意を払いながら家に着いた。すぐに家の中へは入れなかった。  もしかして、もう家を突き止められたのかも。いや、そんなはずはない。家がわかっているのなら、道場まで確かめに来るわけがない。あたしがいないとわかれば、その時間帯に家へ来るはずだ。あの男なら、母が一人のときを狙うだろう。  美咲は不安材料を打ち消して玄関を開けた。  一瞬ためらったが、「ただいま」と声をかけた。返事などあるわけがない。母はスーパーへ働きに出ている。でも、不審者が、あの男が家に入り込んでいたならと、美咲は警戒しながら家の中の様子をうかがった。物音はしない。時計の秒針音だけが聞こえてくる。美咲は足音を殺して、一部屋、一部屋を慎重に確かめた。誰もいなかった。安心はしたけど、気は抜けなかった。夜の道場通いはしばらくやめることにした。学校の少林寺拳法部の練習だけにしようと決めた。  美咲は自分の部屋に入ってかばんを置き、私服に着替えたあと、玄関に近い部屋で勉強をした。  外でなにか音がする度に顔をあげて様子をうかがった。  なにをこんなに怯えているのだろう。あたしはあの頃よりずっと強くなっている。大丈夫。母はあたしが守る。それに気のせいかもしれない。思い違いかも。いえ、伸一君の撮った写真の男は、おそらく。  美咲は立ち上がり、冷蔵庫のミルクを取りに行った。母が買い置きをしたスナック菓子も手にした。一つ、二つと口に放り込んで食べる。  呑気に見えても美咲の神経は休まらなかった。  母が六時半過ぎに帰ってきた。美咲は玄関口まで出迎えた。 「あら、どうしたの。今日は道場へ行く日じゃないの」 「今日は休んだ」 「体調が悪いの」 「そうじゃないけど。あの、お母さん、最近、なにか変なことない」 「変なことってなに。なにもないわよ」 「じゃあいい」 「変な子ねぇ」  美咲は一安心して部屋へ勉強道具を片付けに行った。台所に戻ると、母は鼻歌を歌いながら料理をしている。美咲は母の姿を見て、やっと心を落ちつかせた。    美咲が自分の席に座り、山村(やまむら)紗英(さえ)田丸(たまる)(まい)が美咲の前に立っておしゃべりをしていると、亮太が近寄って来た。美咲は素知らぬ顔で気づかないふりをした。亮太が真後ろまで来ていることは、紗英の表情を見ていればわかる。紗英は、どうも亮太のことを好きになれないというか、受け入れられないようだ。眉を曇らす顔が物語っている。  美咲は意表を突くようにくるっと体を後方へ向け、亮太に満面の笑みを見せた。 「なに。どうしたん」 「ちょっとこっちに来て」 「なに。言いたいことがあるんやったらここで言い。でも変なこと言うたら、みんなに叱られるで」  亮太が紗英と舞の顔を見て、美咲に視線を戻した。 「あのな」 「あんたが心配するようなことはなんもないねん」 「まだなにも言うてないやん」 「あんたが言いそうなことくらいわかる。もうええから。大丈夫や」  美咲は早口で言ってから後部座席の伸一へ目をやった。伸ちゃんもうしゃべったんか。口止めしたのに。心の中で叱ってから、顔の中心に皺を寄せる感じで怒っていることを伸一に伝えた。伸一がぎょっとして、瞬時に顔を伏せた。 「美咲、今日は会われへんか」 「なに。デートの誘い。うれしいけど、今日は部活と空手の練習があるから無理やわ。それにな、今ちょっといろいろ忙しいねん。だからあんたはしばらく翔ちゃんとマンザイの練習をがんばって。なっ。相手して欲しいけど今は無理やから」  これ以上あたしに訊いてもダメだと亮太が思ってくれるといいが。亮太はあたしの性格を知っている。真正面から訊かれると、あたしは意地を張ってしまう。そうやっていつも無理をして、がまんをして、めいいっぱいまで強がってしまう。良くないことだとわかっていても。自分の性格を変えることは難しい。  美咲は(りん)とした顔つきを亮太に向けた。亮太が目を合わせたあと、しゅんと頭を垂れた。  やっと諦めてくれたようだ。亮太が両肩を落として自分の席へ戻っていく。  だが、美咲は動揺した。亮太は完全に感じている。トラブルがあたしに起きようとしていることを察知している。あの男のことを知らずとも、あたしにふりかかる火の粉を不安に思っている。亮太が冗談も言わずに会話を終えたことが、なによりも確かな証明だ。美咲は亮太を巻き込みたくないと願った。  紗英と舞が心配した表情を向けた。 「美咲ちゃん、なんかあったんか」 「大丈夫。大丈夫。なんでもないねん。二人ともそんな心配した顔せんといて。あたしも話しにくいやんか。ほんまになんにもないのに」  紗英と舞がわかったとうなずいた。    放課後、美咲は道場へ向った。  部活を休めば友達から変に思われる。部活仲間から同級生に休んだ理由を訊かれることもある。当然、亮太も本能的に感じとるだけでなく、あたしが心を打ち明けるまで、頑固に問い詰めてくるだろう。美咲は早く家に帰りたい気持ちを抑えて部活練習に励んだ。  帰り道は周囲に目を配りながらまっすぐ家に向かった。  毎度の事ながら神経を(とが)らせると疲れてくる。母が勤めるスーパーへ買い物にでも行こうかと思案した。何も知らない母にあの男のことを気づかれると、母の精神面が心配だ。ここはがまんをするしかない。一人でがまんをするんだ。美咲は自分に言い聞かせた。    美咲は部屋の電気も点け忘れて待った。  母のことが心配だ。不安が増殖して体中を包んでいく。気分が重くなってくる。じりじりと焦りも感じる。お母さん、どうしたの。なぜ早く帰ってきてくれないの。もしかして、やはり、と悪い想像は思考だとしてもふれたくない。時間が長く感じる。びくっと体が揺れた。とっさに玄関口を振り返った。ゆらっと人影が動いた。どきっと恐怖が胸を襲う。がたがたと玄関が動き出す。玄関から人影が侵入してきた。美咲は片膝を立てて身構えた。右の拳に力を入れながら肘を引いた。  侵入者が悲鳴をあげた。美咲は立ち上がり部屋の電気を点けた。 「びっくりした。怖かった。まさかと思ったわよ。美咲、電気も点けないでなにをしてたのよ」 「ちょっと、寝ちゃったのよ。驚かせてごめん」  母の顔色は血の気が引いたように青白くなっていた。 「もう、買い物袋を落としちゃったじゃない」  美咲は母のそばへ行き、買い物袋を拾い上げた。  美咲の視線が母の足もとから顔に上がるとき、母の手が異常に震えていた。 「お母さん、驚かせてごめんさない」 「今日はあまり驚かさないで」 「なにかあったの」 「ううん。お客さんが多くて疲れているのよ」 「そう。ならええけど」  美咲は買い物袋を台所へ運んだ。出来合のお総菜を袋の中から取り出して食卓に並べた。  夕食時、由美は無言で食べた。美咲も静かな食事をすませた。  美咲はお茶を入れようとしたとき、ふと母の言葉を思い返した。 「まさかと思ったわよ」、「今日はあまり驚かさないで」  二つの返答に違和感を感じた。どちらにも、なにか出来事が存在する。それも人を脅かすトラブルが存在する。 「お母さん、正直に話して。今日、なにがあったん」  母がぎょっとした顔を見せた。  母の声がふるえていた。ゆっくりなのに言葉をつまらす。まさか今頃現れるとは。やはり写真に写っていた男は。確信と不安。二つの思いが交互に襲ってくる。  新堂(しんどう)(のぼる)が母の勤めるスーパーに現れた。  由美(ゆみ)がレジ打ちをする場所に、にやにやした昇が無言で商品を出した。支払いをすませる間、昇は由美から視線を外そうとはしなかった。由美は視線を避けて下を向いたまま対応した。昇はなにも言わずにスーパーを出て行った。ほっとしたのはいいが、仕事帰りに昇が待ち伏せていた。由美は走って逃げだそうとした。 「美咲は習い事をしてるようだな」  美咲との生活を昇に知られている。今逃げても無駄だと観念して、由美は立ち止まった。 「元旦那と再会したのに、冷たい女だな」  由美は無言で対峙した。 「そう怖い顔をすんなよ。せっかく縒りを戻そうと考えてたのによ」 「そんな気はありません」  由美は体が固まりそうになりながらゆっくりと答えた。 「まあ、そう言うな。俺もいろいろあったんや」 「わたしには関係ありません」 「しばらくこの町にいるつもりや。ゆっくり家族で話そうや」 「家族ではありません」 「今はな。だが美咲とは親子だ」 「あの子には関わらないで」 「血のつながりは切ることができないからな。ふっふっ」 「あなたとは離婚をしました。もう四年になります。それに、あなたには女の人もいたでしょ」 「あんな情のない女とはもう別れたよ。そう邪険(じゃけん)にすんなよ」 「わたしには関係のないことです」  きっぱり言っても昇は受け流した。スーパーの人がただならぬ由美の態度に気づいて、声をかけてくれた。由美が同僚に体を向けると、昇は笑いを残して由美から離れた。  文字にすると笑っているが、心の底では笑っていない。そんな気味の悪い笑い方だ。  由美は動揺と恐怖を静めるためにスーパーに戻って気持ちを落ちつかせた。  由美の話を聞いて、美咲は掌に爪が食い込むほど拳を握った。力を入れすぎて腕が震えた。 「ごめんね美咲」  美咲は母の声に我を取り戻した。 「お母さんが謝ることないやん。あいつが悪いんやから」 「もし美咲になにかあったら」 「あたしなら大丈夫やて。もう昔のあたしやないんやから。お母さんを守るために空手を習って、学校でも少林寺拳法部に入ったんやから。もう実力は段持ちやで」 「お母さんのために暴力は」 「そんだけちゃうねん。あたしな、少林寺拳法か空手の全国大会をめざしてるねん。それがあたしの甲子園や」 「女の子がそんなこと言うて、でも甲子園って野球でしょ」 「野球をする人にだけ甲子園があるんやないんよ。今はな、いろんな甲子園があんねん。そのうちの一つがあたしのめざす甲子園や。男の子だけが甲子園をめざすんとちゃうねん。女の子にもめざせる甲子園がいっぱいあるんよ」 「目標を持つのはいいことやけど、女の子なんやから、けがだけはせんといてよ」  美咲は母に心配をさせないように、笑顔を作って見せた。
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