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第三章 「美咲」 2「なんにもあらへん」
学校での美咲は普段と変わらないように明るく振舞った。
紗英も舞も他の友達も違和感なく接することができる。誰も悩みを抱えているとは思っていない。不安な気持ちも悟られてない。自分に向ける笑顔と態度は、いつもと変わりがない。大丈夫。あたしは平静を保っている。と美咲は自分の心持ちにほっとした。
気になるのはただ一人だけ。亮太には隠し通す自信がない。亮太は変なところで勘が働く。動物的な本能とでも言えばいいのか、人の外見や表面に振り回されないと言えばいいのか、人の心に内視鏡を入れて感じとるようなところがある。現に、今日はうしろから、ちらちらと何度も自分を見ていることがわかった。確信を得たのは翔太君の苦言だ。
「亮太、ぼんやりするな。ちゃんとネタの確認をしろよ。せっかく俺が新ネタを考えてきたのに、上の空じゃねえか。もっと真面目に、真剣にしようぜ」
亮太がはっと気づいたように翔太に謝った。
美咲は亮太を不思議な人だと思う。誰もが注意をしていることには無頓着と言うか、鈍感な人なのに、ことあたしに関することになれば、するどく心の奥底に入って来て、本心を見破ってしまう。うれしく思うときもあれば、やっかいな人だとも思う。今回はやっかいな人となる。亮太が気づいて、周りの人にも感づかれて、気に病む姿を他人には知られたくない。美咲はおもむろに立ち上がり廊下へ出た。
「おい、亮太、どこへ行くんだよ」
翔太の声が美咲の耳に届くと、亮太が追いかけてきた。
「美咲、ちゃん。あのさ」
「なによ。トイレに行くんやからついて来ないで。これでも一応、あたしも女の子なんやから」
「それはわかってるけど」
「ほら、翔太君が怒ってるよ。じゃあね」
「あっ」
美咲は小走りでトイレに逃げた。亮太の残念そうな声に後ろ髪を引かれた。今回以外の悩みならば、あの男がらみの問題でなければ、亮太に打ち明けて支えて欲しい。でもあの男の件では亮太を巻き込みたくない。娘の彼氏が亮太だとあの男に知られてしまえば、亮太にもなんらかの禍がふりかかる。亮太へのいやがらせが始まるかもしれない。いや、そんな程度ではすまないだろう。あの男は自分より相手が弱いと思えば、横暴な態度に変貌する。みさかいなく逆上して暴力さえふるう。あの男にとって、亮太のような風貌は恰好の餌食だ。
やっぱりダメだ。亮太には言えない。美咲は蛇口をひねって顔を洗った。
美咲は教室へは戻らず、トイレを出て、反対側の廊下から部室へ向った。
お昼休みが終わるまで、亮太のいる空間を避けることにした。
階段を下りて行くと、竜二と出会した。
「新堂、怖い顔をしてどうした。ん。目が怯えてるじゃねえか。原因は痴話げんかじゃなさそうだな」
「神田君、なに言うてんねん。なんでもないよ。ちょっと部室に忘れ物してん。あたし、おっちょこちょいやから」
「おっちょこちょいなのは新堂の判断じゃねえのか」
竜二は少し間を置いてから続けた。
「図星か。まあ亮太と一緒ならいつでも相談にのってやるぜ」
「ずっと一緒やないよ。いつも一緒にいてたら飽きるやんか。無理無理」
「ふっ。亮太の言ってたとおりだな」
「なにが」
「新堂は悩み事があるときほど強がるやつだと。亮太はやつとは言わなかったけどな」
「知ったかぶりをして、そんなこと陰で言うてるんや。今度とっちめてやろ」
「おいおい、俺のせいにするなよ」
「わかってるって」
「新堂、困ったときは、……いや、いい。じゃあな」
美咲は手を振って竜二と別れた。部室へ行く途中で、神田竜二という人が、噂とはまったく違う人物に思えた。人の洞察力に長けた人。目を閉じて神田君の接し方にふれれば、いい人だと思うだろう。それから運動神経は抜群なのに、部活もスポーツもしない。学校の勉強はどうかわからないが、秘めたものが多すぎる。得体の知れない人だ。怖いのではなく、人間的な魅力を感じる人としてそう思えた。男ではなく人間として魅力を感じる。集団の中にいる神田君は怖いから目を向けるのもためらう人だが、いつか亮太と三人で話せる日がくれば楽しいだろうなと、美咲は変な想像を巡らせた。
お昼休みが終わる頃、翔太が教室の前にいた。
美咲は廊下に視線を落として通りすぎようとした。
「美咲ちゃん、ちょっと」
翔太に呼ばれて、立ち止まった。「なに」と返事をしたけれど、顔はあげなかった。
「亮太のやつ、集中力が散漫で落ち着きがないんだ。目の前にいる気がしない。二人の息が噛み合わない。なにかあったの」
「なんにもあらへん。そうか、あいつ、ふらふらしてるなあ。よし。そんなんが続くようやったら、今度あたしがびしっと言うとくから安心して」
「美咲ちゃんに変なこと訊いたりしてごめんよ」
「気にせんでええよ。ほなね」
美咲は誰にも目を向けず、自分の席へ戻った。
亮太の姿が視界の隅に映ったけど、視点の中心は合わせなかった。
亮太の不安を、寂しさを、気遣いを、ひしひしと感じた。亮太の思いが伝わってくる。ちゃんと届いてる。でもがまんして。今回だけはがまんして。あたしもがんばるから。
美咲は窓の外に浮かぶ白い雲を見て、心の中で強く願った。
美咲は由美と台所で時間を過ごした。
今日もなにもなかった。当り前のことかもしれないけど、普通のことかもしれないけど、美咲にとっては安堵を覚えた。きっと母も同じように気の張った心をほっとさせているだろう。
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