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第三章「美咲」 3「みんなは騙されても、僕にはわかるよ」
八時半頃、玄関の磨りガラスに赤いランプが何度も流れた。走馬燈のように同じ流れが繰り返される。まさか。胸が締め付けられそうな不安を覚えた。
「なにかしら」
由美が玄関の方へ向かおうとした。
「お母さん、待って。うちじゃないかもしれへん」
「でも、ちょうど前の通り道にパトカーが止まってるみたい」
美咲と由美は互いの不安を隠すように体を寄せた。玄関に人影が映った。
「新堂さん、夜分にすみません。警察です。ちょっと確認したいことがありますのでよろしいですか」
美咲は由美の胸を手で押さえ、一人で玄関へ行った。
玄関を開けると、二人の警察官にはさまれて、しょんぼりした亮太が立っていた。
「どうしたん」
「この男の子が新堂さんの家の前でずっと立っていたようですね。それで、『不審者がいる。』とご近所の方から通報を受けて、来てみれば少年がいましてね。それで職務質問をすれば、彼が理解しがたい説明をするので、とりあえず派出所まで来てもらおうと言えば、こちらに用事があると言うものですから、確認をさせていただくことになりました」
「あんたはストーカーか」と美咲は亮太を叱ってやりたかったが、「ストーカー」などと言えば事がややこしくなると思い直して、警察官には嘘の理由を説明した。
「すみません。今日、学校で辛いことがあって私が泣いたものですから、心配して来てくれたんだと思います。あの、悪い人じゃないです。バカですが変な人じゃないんです」
「バカかどうかはわかりませんが、そういうことでしたらわかりました」
「すみません」
美咲は警察官に頭をさげて謝った。
「きみ、もう遅くなるから早く家に帰るんだよ」
亮太が泣きそうな顔をして頭をさげた。
警察官が帰っていくのを見届けてから、美咲は亮太を家の中に引きずり込んだ。
家の外で大声を出せば、今度はけんかをしていると通報されて大変なことになる。
自分は冷静だと思った。しかし美咲の声は怒りに満ちた。
「あんた、なにを考えてんの。ほんまにアホちゃう。もうちょっとで警察に連れて行かれるとこやってんで。格好悪いことせんといて。ほんまに焦ったわ。ほんまに恥ずかしいわ。ほんまに情けないわ。話があるんやったら電話してきたらええやろ。ずっと家の外で立ってるやて、あんたは変質者か。ストーカーか。ああもう腹立つ」
美咲は怒りながら泣き出しそうになった。
「美咲、美咲、もうやめなさい。そんなに怒ったらかわいそうやんか」
「かわいそうなことないわ。人の気も知らんと」
「わかるよ」
「なにがわかるんよ。わかるわけないやろ」
「わかるよ。みんなは騙されても、僕にはわかるよ。美咲、変やもん。なんか隠してるやん。それもええことちゃう。僕にはわかる」と亮太は泣きそうな声で伝えた。
「なに言うて……」
美咲は言いかけてすとんとくずれ落ちた。
亮太が美咲の目の前で正座をして、小さな声で言った。
「約束したやん」
美咲はぽろぽろと涙をこぼして泣いた。
由美が美咲をうしろから包み込むように抱いた。
美咲が泣きやんで気持ちが落ちついたとき、由美が座敷へ連れて行った。
亮太が三和土に座り込んだまま動かない。
「藤崎君、そんなとこにいてやんと家にあがって」
「あっ、足が痛い」
亮太が息の詰まりそうな声をもらして三和土に転げた。
「アホやな。三和土で正座なんかしたら、痺れがきれるにきまってるやろ」
「いっ、痛い」
女座りのまま動けない亮太を見て、美咲と由美が大笑いをした。亮太が引きつった顔で笑い返した。
「ストーカーにでもつけ狙われているのかと心配してたんだ」と亮太が打ち明けた。
由美がお茶を入れる間に、美咲は簡潔に説明をした。
身近で見当がつく人、あるいは知人の中から勘を働かさなければ判別できないほど、写真の人物が横顔でぼやけていたからだ。美咲でさえ心に深い傷を持ち得ていなければ、もしかしてと思いつくことはなかっただろう。
「今のところ危害はないから」
「事情はわかったけど、でも心配だ」と亮太が言ってくれた。
美咲は亮太の気持ちをうれしく思いながらも、今晩のようなことはしないでほしいと伝えた。世間の狭い町で住んでいるし。近所の人には知られたくないし。貸家でもあり、事があまり大きくなると住みにくくなる。と美咲は理由をあげた。
亮太が美咲の説得に理解を示してくれた。
しばらく三人で話をして腰をあげた。
由美が心配をして家まで来てくれた亮太にお礼を言って、玄関まで見送ってくれた。
美咲は外まで出て亮太を見送った。「また明日」の言葉が新鮮に思えた。
「あの子、ええ子やな」
「お母さん、わかる。優しいやろ。あたしの彼氏やねん」
由美が美咲の明るさにつられてにこりと笑みを浮かべた。
「家に着いた」と亮太が電話をしてきた。
亮太が帰り道で目にした出来事を話した。
亮太が自転車で帰る途中、自動販売機が並んでいるお店の前で、土田信人君と青沼幹生君がいた。土田君はクラス一の老け顔で、おとなしく、地味なタイプの生徒だ。青沼君は言わずと知れた畜産科の不良グループで、かつ日置政孝に近い存在の男だ。二人が夜遅くに一緒にいるなんて、一番マッチしない取り合わせだ。しかも青沼君が土田君の肩に腕を回している。仲が良さそうでもない。土田君が何か話しかける青沼君から顔を離そうとしている。亮太はブレーキを閉めて二人の近くで止まった。
「土田君、なにしてるん」
青沼君と土田君がびくついて振り向いた。
「なんや藤崎か、あんまり驚かせんな。どきっとしたやないか」
「ごめん。ごめん」
「お前に用ない。あっちへ行け。ほれ、土田、早うせい。また誰か来るやろ」
亮太は離れたところへ移動して、二人を観察した。二人が自動販売機を覗く。自動販売機の用がすめば、青沼君が一人で帰った。土田君がうなだれて歩いてくる。亮太が自転車を回して、土田君に近寄った。
「なにしてたん」
「タバコを買わされてたんや」
「なんで」
「最初な、『お前、顔貸せ』って言われて、からまれたと思ったけど出て行ったんや」
「無視せなんだんか」
「どうせ逃げても学校で捕まるやん。あきらめて行ったら、タバコの自動販売機の前まで連れていかれて、『この前に立て』って言うんよ。要は成人認証をする機械があるからや。いくら僕がクラスで老け顔や言うても、そらないわ、と思てたら、ちゃんと認証するからびっくりしたわ。でもな、いくら認められたって言うても、やっぱり、ショックやったわ。ほんまかこれ? って感じや。それから青沼君がタバコを買いたいとき、たまに顔貸せって言われるんや。顔貸せの意味がちゃうけど、ほんまに難儀やわ。たまらんよ。大人の人に見つからんか、いつもはらはらやわ」
「そんなことさせられてたんか。かわいそうやなぁ」
「ほんまにいやなんよ。このこと先生に言わんといてよ」
「言うわけないやん」
「ありがとう。ほな帰るわ」
土田君はとぼとぼ歩きながら帰って行った。
亮太が帰り道の出来事を話し終えた。美咲が亮太に忠告をした。
「ほんましゃあないことしてるなぁ。亮ちゃん、変なことに巻き込まれたらあかんで」
亮太がうなずいて、テレビ番組の話を始めた。なにがおもしろいのかと他人から訊かれると答えにくいが、とにかく亮太は笑い声を聞かせてくれた。最後に土田君のことをネタ帳に書き残すと言って、亮太が電話を切った。
亮太はあたしが眠くなるまで話をしてくれた。電話の内容はどうしてもあたしに伝えたいことではない。あたしが不安になって寝られないことを心配して、笑い声を聞かせてくれた。美咲は微笑んで眠りについた。
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