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第三章 「美咲」 7「お母さんの前でそんなことはっきり言わんといて」
休み明け、学校での美咲は心の明るさを取り戻した。
紗英ちゃんや舞ちゃんと目が合えば含み笑いをしたり、くすくす笑ったり、先日のお泊まり告白タイムを思い出しては目を細めた。美咲は自分以外にも目を向ける余裕が出て来た。亮太と伸一君が、妙に不自然な動きをしている。翔太君がいないときを見計らって、二人が声を落としてひそひそ話をする。なにやらよからぬ事を企んでいる素振りに見える。美咲は二人が頭を寄せてこそこそ話をしているタイミングで、教室の前から廊下へ出て、うしろから入ってこっそり二人の背後についた。
「だから写真を撮ってよ。ばれるとやばいから」
「どこで撮るんだよ。難しいぞ」
「あんたらなにを企んでるん。さっきから、こそこそ、こそこそして。怪しいな。で、写真がなんだって」
二人が一斉に椅子から飛び跳ねて立ち上がった。
「逃げるな。二人ともそこに座りぃ」
二人がお尻を突き出して椅子に軽く腰かけた。
こんなときは亮太に訊いてもなにも打ち明けない。攻めるのは伸一君の方だ。
美咲は伸一の目を見据えて質問をした。
「写真と言えば伸一君のことやね。なんの話をしてたん。正直に言いなさい」
伸一の目があっちこっちと泳ぎ回る。明らかになにかを隠している素振りだ。美咲は顔を寄せて問い詰めた。
「ほんまになんでもないよ。ぼっ、僕は自分の作品について、亮ちゃんから感想を聞いてただけや。なっ、なぁ、亮ちゃん。ほんまやなぁ」
亮太が伸一の言い訳に合わせて何度もうなずく。
「変な写真やないやろね」
「エッチな写真は撮ってません。それは絶対にないです」
「そこまで訊いてないけど、それやったら隠す必要ないやん。なんで翔太君がいないときにこそこそ話をするん」
「いや、それは、翔太に話をするのはちょっと恥ずかしいから。先に亮ちゃんの意見を聞いてからにしょうと思って」
「別に翔太君がいててもええやんか」
「それはそうなんやけど、亮ちゃんは気遣った意見を言ってくれるから。やっぱり翔太のストレートな意見を聞くよりは傷つかんですむし」
「まあ、それはわからんでもないけど。ほんまやね」
二人がこくこくとうなずいて返事をする。
「しゃあない。ほな許したるわ」
美咲が自分の席に戻ろうとすると、背後から「僕らなんも悪いことしてないのに、なんで許されなあかんの」と伸一が情けない疑問の声で亮太に問う。美咲は振り向かずに両肩を寄せてくすっと笑った。
下校時、美咲は亮太と伸一のことで思い出し笑いをしながら帰路についた。
予習復習もすませて夕食の準備も終えて、あとは母と一緒に食事をするだけだ。
しかし、母がなかなか帰ってこない。また沢山のお客が来て忙しいのかもしれない。時計を見れば、もう七時半を過ぎている。母からはなんの連絡もない。美咲は胸騒ぎを覚えた。スーパーまで迎えに行く方がいいのかも。美咲が立ち上がりかけると玄関から音がした。
「お母さん、遅かったね」
美咲が出迎えに行けば、登が由美の背後にぴったり体をくっつけ、右腕で由美の首を挟んでいる。由美は身動きが取れない状態で三和土に立った。美咲は由美を見て息を呑んだ。
「早よ金出せ。もう時間がないんじゃ」
「お願い。お母さんを放して」
「美咲、こっちに来たらあかん。逃げよし。この人、借金に追われて逃げてきたんや。なにするかわからんから。危ないから逃げよし」
「そんなん、お母さん置いて逃げられへん」
「うるさい。二人とも黙れ。ごちゃごちゃ言うてんと早よ金だせ。どこや」
「そのタンスの二番目の引き出しに、封筒に入れてます」
登は由美の背後にぴったりくっついたまま移動した。美咲は正面を向けたまま体の角度を変えた。登が焦った手つきでタンスの中を手探りで探した。封筒を鷲摑みにして取り出した。
「どけ。じゃまや」
由美が悲鳴をあげて壁の前に倒れ込んだ。
「なんや三万円しかないやないか。こんなもん屁の突っ張りにもならんわ。もっとないんか」
「そんなにお金なんてあるわけないでしょ」
「くそっ。見込み違いや。なんでもええ、金目のもん持ってこい」
登が由美を脅すように体を向けて凄んだ。美咲は一瞬の隙を見て突っ込んだ。
窓ガラスががらっと開く音がした。登が振り返ろうとしたとき、自分に向かってくる美咲の姿が目に映った。美咲は怒りを込めて回し蹴りをした。ぶん。と音がしたけれど、手応えはなかった。美咲の蹴りは登にかわされた。バランスを崩しかけたとき、美咲は登に腹を蹴られて倒れ込んだ。
中学二年のとき、美咲は登の暴力を見かねて、習った空手の技で登を蹴り倒したことがある。それで登は温和しくなり、腑抜けになり、最後には勝手に離婚届を出して女と逃げた。ちゃんと調べれば代筆だと証明できるが、離婚を踏みとどまる理由などない。母とあたしにとっては好都合だった。
しかし、あのときは蹴り倒せたのに、今度はかわされた。恐怖心で足が竦んで伸びきらなかったのかもしれない。
美咲が立ち上がると、登は由美を引き上げて盾にした。
「殺すぞ。それ以上歯向ったらこの女殺すぞ」
登が目を釣り上げて美咲を睨んだ。
そのとき窓からフラッシュが焚かれた。登が気を取られて窓側へ顔を向けた。三和土から誰かが登と由美に飛びついて行った。由美は窓際に倒れ、登は壁側に倒れた。目の前に人が蹲っていた。美咲はチャンスを見逃さず一歩踏み出した。登が立ち上がると、美咲は蹲った人を踏み台にして、登の胸に跳び蹴りをした。カエルを踏みつぶしたような声と、うぐっと呻くような声が聞こえたかと思うと、登がもんどりを打って壁にぶつかった。
美咲は瞬時に登の横まで近づき、次の技を繰り出せるように構えた。
脳しんとうでも起こしたのか、登は起き上がってこない。美咲は油断せず、じっと構えたまま睨み据えた。
「お母さん。警察。警察を呼んで」
美咲が叫んだと同時に、パトカーのサイレンが聞こえてきた。
美咲はタイミングが良すぎると思ったが、登から目をはなさず、構えを崩さなかった。
「こっちです」と男の声が聞こえた。
警察官が入って来ると、美咲は一歩下がって構えを保った。
「不法侵入と銃刀法所持の現行犯で逮捕する」
三人の警察官が登を取り押さえた。
「もう大丈夫です。おけがはないですか」
「母がけがをしてるかも」
若い警察官が母に歩み寄った。
「あなたは大丈夫ですか」
年配の警察官に声をかけられて、美咲は冷静を取り戻し、初めて周りを見回した。
誰かが畳に蹲っている。よく見ると亮太だとわかった。
「あんた、なにしてるん」
「背中、痛い」
「あっ、ごめん。跳び蹴りするとき、あんたを踏み台にして踏んづけてしもたわ。あのカエルみたいな声はあんたの声やったんか。あっはっはっはっ」
美咲は腹を抱えて笑い出した。
「いっ、痛い」と亮太が寝そべったまま呻いた。伸一が亮太のそばに走り込んできた。
「亮ちゃん、撮ったぞ。決定的な証拠写真や。これであいつも捕まえられる」
伸一が亮太の背中をさすっていると、真上から怖い声が聞こえてきた。
「もう捕まったわ。あんたら、そういうことを企んでたんか。アホ。そんなことしてけがでもしたらどうするつもりやったんよ」
「亮ちゃんが父ちゃんの言葉を思い出したから頼むって言うから」
「伸一君、その話、ゆっくり聞かせてよ」
登がパトカーに乗せられ、警察署へ連行された。
母にはけががなく、警察から事情を訊かれ、後日またということになった。
一つ気になることがあった。パトカーが到着するまで、黒塗りの3ナンバーが一台、家の近くに停まっていたと伸一君が話したことだ。この近辺では似つかわしくない高級車だ。黒塗りの3ナンバーはパトカーのサイレンが聞えるといつの間にか消えたらしい。不審だが、たまたまかもしれない。美咲は思い直して家の中へ戻った。
美咲は伸一を問い詰めた。
「どうして僕が、事情聴取をされなきゃいけないんだよ」
伸一が泣き言を言いながら説明をした。
亮太が中学一年のとき、ちょっとした反抗期になった時期がある。そのとき母ちゃんが泣いたらしい。それを知った父ちゃんが、「俺の女を泣かせるな」と亮太に怒って凄んだ。
亮太は父ちゃんの怖さにびっくりしたという。あとで思い出せば、夫婦なのにまだこんな風に言えるなんて、父ちゃんはとても母ちゃんを愛していると理解した。
亮太が父ちゃんのことを思い出し、美咲を守りたいからと伸一を説得して、美咲をつけ狙う男の証拠写真を撮り、警察に捕まえてもらおうと考えたという。
「不審な男が美咲ちゃんのお母さんと一緒に家の中へ入るのを見たから、急いで警察に連絡をしたんだ」
「だから警察が早く来たってこと」
「そっ、そういうこと」
伸一が美咲の納得に相槌を打った。美咲はもう一度二人に注意をした。
「でも、危険なことを勝手にしたことには変わりないで」
「それは、亮ちゃんにとっては美咲ちゃんが一番大事やからしかたないやん」
「もう、お母さんの前でそんなことはっきり言わんといて。恥ずかしいやんか」
美咲が伸一を叩いた。
照れていても、美咲の叩きは痛いと感じた。「お前、ようこんな痛さ、いつもがまんできるな」と伸一は亮太に言いたかったが、美咲の前では口を閉ざした。
美咲と由美に見送られて、亮太と伸一は意気揚々と帰った。
翌日、お昼休みのとき、翔太と亮太がマンザイネタを練習した。
美咲は教室のうしろへ行き、見学をした。内容はお相撲さんにインタビューをするネタらしい。
翔太がネタを始めた。
「関取、今日の一番は豪快な勝利でしたね」
「ごっつあんです」
「今日の勝因はなんでしょうか」
「かっ、彼が友達なので、かっ、勝たせていただきました」
「それは言っちゃダメでしょ」
「あの、……あっ、仲が良いですから」
「おいおい、そう言う問題ではなくて、モラルの問題でしょ」
「今日の一番は勝ち越すか、あの、負け越すかの瀬戸際でしたので。……どうしても白星がほしかったんです」
「いやいや、そうじゃなくて、観てる人に対する冒涜でしょ」
「だっ、大丈夫っす。お互い持ちつ持たれつで助け合ってますから」
「いやいやいや、仲良しを強調してる場合じゃないでしょ」
「大丈夫っす。今度、えっと、僕が彼を助けますから。怒らないでください」
「ファンが怒るわ」
「うまく演技します」
「そんな関取いねえよ。もうええわ」
翔太と亮太がマンザイを終えた。翔太の顔がいまいちうれしくなさそうだ。
亮太が伸一と美咲に感想を訊いた。
「まぁまぁちゃう」
「うん。わりとおもしろかった」
亮太は満足そうな顔をした。
翔太は暗い顔をして言った。
「いや、ボケとツッコミのタイミングがずれてる。一呼吸分遅かった。テンポがぎくしゃくした感じを受けた。もっと練習をしなきゃダメだ」
「ごめん。僕のせいや。もっとがんばるわ」
翔太はろくに返事もせず、教室を出ていった。
「なんやろ。青春やのに清々しさがないわ。亮ちゃん、翔太になんかあったんか」
伸一が首を傾げながら訊ねた。亮太は顔を横に振る。美咲は両肩をあげてわからないと身振りで伝えた。
「また練習したらええやん」
美咲は前向きにフォローした。
亮太がうんと返事をしたまま佇んだ。
「ほら、元気だしなぁ。外は快晴やで」
美咲は晴れやかな笑顔で空を眺めた。
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